生も死も両方祝福されている

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コラム
どんな時も祝福されてる・・・

そのような想いに包まれました。

叔父が意識不明だという連絡を頂いてから感じたこと。


幸せ感じているときだけではなく

物事がうまく進まない、心が傷ついてる

そのような状態の時でさえも、

自分という存在は常に祝福されています。

一見不調和だと見えるときでさえも、
それは、自分を通して見える小さな一つの部分でしかなく、

その不調和と見える一コマさえも、
全体の調和の中の一つなんですよね。

目の前で、かわいそうに・・・と感じる人がいたとしても、
”かわいそう”という見方をしてるのは自分で、
その存在はかわいそうでもなんでもない。

ただ生き生きと命の現れとして、そこに表現されているだけ。

意識の状態で見え方は変化します。
見え方は世界を創る。

ときめきとつまらないもひとセット。
ときめきに目を向けているのか、

つまらないことに目を向けているかで
一日の過ごし方も違ってきます。

死さえもかわいそうなことではなく、
魂の視点からいけば、もう充分体験をした。
もっと大きくなって、次のレベルにいくというときに
死が訪れるとも最近目にしました。

全体の視点から行くと、死もまた生へ向かうための
命の循環、変化の一つ。

全体の中で私と思う体は表現されているので
体が死んでも、全体のわたしは生き続ける。

死も生も両方が祝福。

どんな状態も祝福されている。

今このとき、どのような状態だとしても・・・・

喜んでいても、

悲しんでいても・・・







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