おはようございます。
私は起床すると、ときどき『あぁ、今日も朝を迎えることができた。』と強く感じる時があります。むろん、その逆の感情をもって起床する時もあります。
一日の始まりは、おそらくすべての者にとって特別な時であると思います。
「また一日が始まるのか・・・」とか「今日から休みだ、遊べるぞ~」とか「もう少しでボーナスじゃん!」といった具合に。
そんな起床時に感じる感覚は、まさしく「生きている」の証です。
そこで今日は「生きている」ということをテーマにちょっと書いてみたいと思います。
人は、なぜこの世に生を受け、そして生き、死にゆくのでしょうか。
真剣に考えてしまうと、とても哲学的になってしまいますし、宗教色が強くなってしまい、賛否が出てしまうと思います。
なので、難しく考えるのはやめて『シンプル』に、そして『ラフ』に考えてみたいと思います。
「生きている」ということは、心病む健常者や精神疾患の者にとって、常に考えさせられ、悩まされるテーマだと思います。
そこで、私が今まで引用してきている『禅語』ではどう表現しているのか。
その視点から考えてみたいと思います。
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『生死事大』(しょうじじだい)
みなさんは、お寺に行った時に『生死事大』と墨で書かれている、合図を告げる時に打ち鳴らす木板(板木【はんぎ】)を見たことはないでしょうか?
この『生死事大』、きちんとした意味があります。
簡単に説明すると『人生には運不運がつきものですが、一日一日を大切に生きる。それを続けてこその人生』
ちなみに、辞典には次のように記述されています。
生き死にの問題は重大であり、それをいかに超越するかが最大事であること。
生死を繰り返す、この世の迷いを捨てて悟りを開くことは、いま生きているこの時しかなく、最も大切なことであるという。
(三省堂提供「新明解四字熟語辞典」より)
私たちの世代(このブログを読んで頂いている皆さん?)は、第二次世界大戦を経験した者はいないでしょうし、身近に体験したという方がいるという人も、もう少なくなっているでしょう。当然、私も戦争を体験したことはありません。そして現在、ウクライナ問題をはじめ他国では紛争がまだまだ起こっています。
さて、この話は大戦を経験された方のお話です。
”ひと時も予断を許さない銃撃戦。敵が激しく攻めてくる。必死になって伏せて弾から逃れようとする。銃撃がやみ、ふと頭を上げると両脇に伏せていた仲間が死んでいた・・・。死んでいった仲間と生き延びた者の違いは・・・。”
この方は戦争を経験し、次の様に言っていたそうです。
「今こうして生きているのはありがたいこと。人間は目に見えぬ大きな力によって生かされている。」のだと。
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私達は『生かされている』
だからこそ、命を無駄にしてはいけない。本来の自分を『素直な心』で見つめ、自分が思ったときに、自分のやりたいことを必死になってやる。
自分らしくない時間を過ごすことは空虚です。せっかく『生かされている』のだから、人生は何が起きるかわからない、本当にあっという間に終わってしまうかもしれない。のだと・・・。
この時この一瞬を、今日一日を大切にしてみませんか・・・。