今日を大切に生きる
おはようございます。私は起床すると、ときどき『あぁ、今日も朝を迎えることができた。』と強く感じる時があります。むろん、その逆の感情をもって起床する時もあります。一日の始まりは、おそらくすべての者にとって特別な時であると思います。「また一日が始まるのか・・・」とか「今日から休みだ、遊べるぞ~」とか「もう少しでボーナスじゃん!」といった具合に。そんな起床時に感じる感覚は、まさしく「生きている」の証です。そこで今日は「生きている」ということをテーマにちょっと書いてみたいと思います。人は、なぜこの世に生を受け、そして生き、死にゆくのでしょうか。
真剣に考えてしまうと、とても哲学的になってしまいますし、宗教色が強くなってしまい、賛否が出てしまうと思います。なので、難しく考えるのはやめて『シンプル』に、そして『ラフ』に考えてみたいと思います。「生きている」ということは、心病む健常者や精神疾患の者にとって、常に考えさせられ、悩まされるテーマだと思います。そこで、私が今まで引用してきている『禅語』ではどう表現しているのか。
その視点から考えてみたいと思います。
*****『生死事大』(しょうじじだい)
みなさんは、お寺に行った時に『生死事大』と墨で書かれている、合図を告げる時に打ち鳴らす木板(板木【はんぎ】)を見たことはないでしょうか?この『生死事大』、きちんとした意味があります。
簡単に説明すると『人生には運不運がつきものですが、一日一日を大切に生きる。それを続けてこその人生』ちなみに、辞典には次のように記述されています。
生き死にの問題は重大であり、それをいかに超越するかが最大事であること
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