野鍛治
私は野鍛治だ。
多くの人を従える鉄工所の親方でもなく、刀剣を鍛える刀鍛冶でもない。人々の注文を聞いて、日常の道具をその人の体力や使い方に合わせて、経験と工夫を活かして手を動かして一つずつ作り出す道具職人である。
暫時(しばし)も止(や)まずに槌打つ響…
仕事に精出す村の鍛冶屋
(文部省唱歌)
Wikipedia によれば「昭和60年(1985年)には小学校の音楽の教科書から完全になくなった」文部省唱歌の「村の鍛冶屋」。そのメロディーや歌詞は今も多くの人の耳に残っていることだろう。村の鍛冶屋というのは「野鍛治」のことだ。
野鍛治とは今で言う鉄工所みたいな立派な工房を構える大規模な職人集団ではない。また、主に刀剣を鍛える刀鍛冶とも異なる。鋤(すき)や鍬(くわ)、鎌、斧といった農業や林業、様々な日常の用に供される道具を作り、鍛え、研ぎ、修理し、場合によっては別の道具に作り替えることを通して人々の生活を支えた。
なぜ、この「コーチング」のブログで野鍛治を話題にするかというと、それは私自身、自分が「野鍛治だ」という気持ちを持っているからだ。いわゆる「アイデンティティー」だ。
・私は○○になりたい(到達目標)
・そのために今△△をしなければならない(行動目標)
というのを扱うのがコーチングの中心テーマだとすると、その一つ上にある
・私は何になりたいのか?
というのがアイデンティテーの問題だ。
もちろん、いうまでもなく今から現代の野鍛治の親方をなんとか探し出して弟子入りして修行し、鎌や斧を作って生業にしようということではない。メタフォリカルな意味である。
しかしもし「お前の祖先は鍛冶屋だったのか?」と問われたら「そうかもしれない」と答えてもいいように思う。
ご先祖様は鍛治屋?
私の名前(苗字)は一風変わっている。「さんぽん」と読むと位階を表すのでそれが由来かとも思ってみるが、もしそうなら当然あってしかるべき「二」や「四」が全く見られず「三」だけ、というのは何とも不自然で採用しがたい。
地理的な分布を調べてみると宮城と岐阜に極端に偏っていて、特に岐阜では歩けば10分ほどで通り過ぎてしまうほどの狭い範囲にそれこそ右を見ても左を見ても同姓の家がひしめいている。住宅地図でマーキングしてみると、一つの区画が真っ赤になってしまうくらいだ。それでいて道一本隔てるだけで一軒もなくなる、という不思議さ。その理由が知りたくて実際に現地に行き、いく人かの同姓の人に突撃取材をしてみたことがあるが結局、正確な由来はわからなかった。
基本的に農民なのでもともと氏は持たず明治になってから近所一帯がみんなで苗字として届け出て名乗るようになった、ということのようだがさらに遡ると戦国時代のとある武将に由来すると説明する人もいた。
農業以外の職業としては木曽川が近いことから水運関係や船大工が多く、さらに「関の孫六」で知られる名刀の産地である関が近いことから刀鍛冶もいたようだ。実際私が話を聞いた料理屋の親方(当然同姓)の父親は八百屋だったがその先代は船大工、さらに祖先は刀鍛冶だった、ということである。
このようにして「私の祖先はもしかすると鍛治屋だったかもしれない」ということになるわけだ。
実のところ私の直接のご先祖はずっと宮城に住んでいて先々代になって東京に出てきたことがはっきりしており岐阜とのつながりは不明だ。しかしその辺のことは大きな問題ではない。
血縁からのつながりは、「なくもない」というところまで来た。
これが私自身のアイデンティテイー、「私は野鍛治だ」という宣言に昇格するのには別の記憶が後押しになっている。
実際に野鍛治を見た、というかすかな子供のころの記憶である。
鍛冶町のこと
私が生まれ育った家は田んぼや畑が広がる田舎と住宅地のちょうど境目あたりにあった。家の敷地の半分がもと田んぼだったのが禍いして家を建ててほどなく不均一な沈下が始まりジャッキを使って根太の水平を修正しなければいけなくなる、という状態だった。ビー玉を床に置いて手を放すとコロコロと転がったのを覚えている。
私の家族は父の職場があったこの地に戦後に移住してきた新住民だ。こんな環境なので周囲の家も古くからの地主あり、小規模農家あり、八百屋や魚屋、駄菓子屋といった小商いをする店や畳屋などの職人あり、と多彩だった。
私が通った小学校、中原小学校は徳川家康が鷹狩りをする時に宿所とした御殿がその後長く使われず放置されていたのが明治になって自治体に払い下げられて小学校を建てた、という歴史を持つ。なので今も「御殿」という地名が残っている。多摩川を丸子橋で渡る中原街道の終着地である。
この中原の南側だから南原、というわかりやすいネーミングの地に私は生まれた。そしてこの南原には今でも鍛冶町という地名が町内会の名前として残っている。戦後移住の新住民だったこともあり町内会活動には積極的に参加しなかったが私の家はこの鍛冶町かその隣あたりの町内会に位置する。家康の時代か、もっと古くか、いつかはわからないがこのたりで鍛治が営まれていたことはおそらく間違いないだろう。
その痕跡なのかどうかは定かでないけれど、幼い時おそらく5〜6歳ころの記憶として、家から二、三軒ほど隣の農家が庭先でごくささやかな規模で鍛治仕事をしているのを目にしたのをかすかに覚えている。屋根もない庭先にごく小さな火床(ほど)をしつらえ、小脇に抱えられるくらいのこれもまた小さなふいごで火を起こす、といったいわばDIYのようなものだ。道具を納屋から引っ張りだしてその日限りの鍛冶場を作り、ちょっとした道具の修理をして片付けたら終わり、といった感じ。もしかすると器用さを買われて近所の人たちの道具も直してあげていたかもしれない。ひょっとすると先々代あたりがもっと本格的にやっていたのを子供のころに見覚えたのを思い出しながら真似していたのかもしれない。
ともかく、規模こそ小さいけれどこれが野鍛治の仕事風景であったのは間違いない。私は物心ついたころから人が物を作るのをじっと見ているのが好きだったのでいつまでも飽きずに眺めていたのに違いないと思う。
野鍛治が作るのは道具だ。私は道具を作るのが大好きな「野鍛治」なのだ。
アイデンティティー
アイデンティティーというのはどこかよそよそしい、大袈裟な響きがある言葉だ。無理に日本語にして自己同一性などといったらなおさら近寄りがたいものになる。しかし、もっと気楽に「私は○○だ」という時の○○、と考えるとぐっと身近なものに感じられないだろうか。
コーチングの中で、
「ロールモデルにしたくなるような、自分の将来を重ねらるような」先輩や偉人、果ては英雄イメージにそれを求めるというアプローチをすることも多い。
しかし、もっとぐっと等身大に引き寄せて、子供の頃にあこがれを抱いたり「いいな」と思ったちょっとした風景などにその原型を求めるのも時には良いのではないだろうか。
少しでも人様のお役に立てるように言葉という道具を今日も「しばしもやまずに」鍛え続ける野鍛治でありたい、と思う。
鍛治職人の仕事
現代に受け継がれる鍛治職人の仕事を通して昔の様子を思い描いてみてください。