サックスを習い始めて5年、今年もBlowing Fes(発表会)の時期がきた。毎年レッスン仲間で出演しているが、参加者も18組となり地元の大きなステージでのフェスだ。なかなか本格的で私は4人のアンサンブルで出演する。
ソロステージは怖くてとてもじゃないがひとりで舞台に立てない。それでも他のメンバーを頼って適当に?とはいかない。なんせ高齢者4人のアンサンブルである。誤魔化しはすぐにバレル。そしてひっそりと個人練習が始まるが、何かおかしい?こんなはずじゃないのに……、4人のときはもっとうまく聞こえたのに……。何故だろう?何か物足りない、変だ。
アンサンブルとは重奏のこと、演奏が重なること。それぞれのパートの音が重なることだ。私の担当するアルトサックスは3本で、それにテナーサックス1本が加わる。アルトもそれぞれパートに分かれ、一人で演奏するよりも曲に厚みが増す。譜面の数段がそれを物語る。そうだ、私はこの厚みに酔っていたかもしれない。だから一人の練習は何か物足りなくなる、こんなはずじゃないのに…となる。
以前、音楽が聴こえるストーリーを書いた。その中でこんなことを書いている。
音楽と文章はよく似ている。メロディは哀しい物語に姿を変えて小説の読者を魅了する。音符のひとつひとつは文字であり、ひらがなと漢字の組み合わせは和音(コード)のように、文章の雰囲気をつくりだす。言葉づかいの叡智は、歌い手の声質であり楽器の音色だろうか。交響曲(シンフォニー)と交響詩。コンサートマスターは主人公で、オーケストラの各奏者(登場人物)を統率して、コンダクター(著者)の想いを表現している。
音楽と文章は同じ世界に住んでいる。
小説の中では主人公に様々な人物が絡んでいく。主人公の動きや心情を読んでいても、読者の心中では今そこに描かれていない登場人物の影が背後で重なっている。単発のメロデイのように聞こえても、他の人物との和音が物語に厚みを増している。他の登場人物は隠れていても主人公に生き生きとした輝きを与える。それは私が経験したアンサンブルの演奏のようだ。
一人の人間をとらえても言えることがある。
「年齢を重ねる」とはよく言ったものだ。私たちは、子供時代、若者時代、老年時代を重ねて今を生きている。「時代」は途切れているわけではない。繋がっている。
以前ブログの中でこんなことを書いていた。
過去の歴史を考えるとき、私は歴史年表を左から右へ、横に並べて見ていた。年表の中で、江戸時代、明治時代、大正時代・・・とそれぞれ太い線で区切っていた。その区切りは無意識のうちに歴史の流れを区切っていたようだ。前の時代が終わり、常に新しい時代を迎えたことに何の違和感も持っていなかった。本当は続いているのに、流れているのに、常に前の時代は途切れていた。
時代を一本の竹と考えてみてはどうか。
過去の上に現在を、その上に未来を重ねて書く方が歴史の正体を理解し易い。
横に並べていた年表を縦にして読めば、時代の区切りは竹の節のようであり、竹は上へどんどん伸びていく。終わっている過去が、今でも竹の根のように強く張り続けているかもしれない。過去が現代や未来に影響を与えていく。
重なる…
アンサンブルも、ひとりの人間の人生もすべては重なっている。様々な色や音が混ざり合っている。綺麗な音ばかりではない。他人を罵る汚い言葉も重なることで美しい世界や音楽を造り出している。
世の中がエゴイストではなく善人ばかりになったら、さぞ美しい世界になるだろうと人は想像する。でも私はそうは思わない。綺麗な世になるかもしれないが、美しい世界には及ばない。
美しさには強さが必要だ。強さは善と悪が重なることで作り出されると思う。