NL恋愛小説

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冬晴れの夕方である。寝屋川沿いの土手の上を3人の子供たちが歩いていた。3人とも小学校高学年くらいだろうか。野球のユニフォームを着ていて、地元のジュニア球団に所属している野球少年たちであることがわかる。明らかに試合帰りだとわかる泥まみれのユニフォームで、少年が2人、少女が1人、夕日に照らされて帰り道を進んでいく。穏やかそうな短髪の少年の後ろをてくてくと元気なさげについて行く線の細い少女がおずおずと口を開いた。 
「桃吾、謝るから機嫌直してよ」
先頭を歩いていた黒髪の少年は、少女の言葉を聞いて険しい表情で大声を張り上げた。
「謝って済むなら警察はいらんのや!」
焦茶色のショートカットの少女、庵野京香はビクッと肩を震わせる。いかにも気の弱そうな少女にとって、少年の大声は心臓に悪い。
「桃吾、京香ビビらせないでやったってやー」
短髪の少年、巴円は朗らかな笑い声を上げた。周囲でいざこざが起きそうな時、場をなごませるのはいつも彼の役目だった。幾分か、張り詰めた空気が和らいだようだ。
「オレがビビらせとんのやない!京香が勝手にビビり散らしとるだけや!」
気の強そうな吊り目の少年、雛桃吾がムキになったように口角泡を飛ばす。桃吾の激しい怒りに触れて、京香はますます怯えて萎縮してしまうようだ。
「桃吾〜、そんな怒らないでよぉ。ゴメン、ゴメンってぇ・・・」
「京香おまえ、ようけそんなアッサリ謝れんねんな!」
申し訳なさそうにひたすら頭を下げる京香と、怒りを露にする桃吾。京香の謝罪は今の桃吾にとっては火に油を注ぐ行為でしかない。
「おまえがあそこでキッチリボールを取ったったらなアカンかったんや!」
「だ、だからゴメンねって言ってるじゃない・・・」
「ゴメンって何や!?おまえが謝ったって、今日の試合の結果は変わらんねんぞ!」
「ホントに悪いって思ってるってば・・・ゴメンね、桃吾」
「アホ!謝るくらいやったら最初っからすんなや!」
「ハッハッハ!」
円の快活な笑い声が、桃吾と京香の間の険悪な空気を破る。
「桃吾、それくらいにしといたってや!敵さんも上手い良い試合だったわ、今日の試合は!」
「円、おまえも何わろてんのや!悔しないんか、2人とも!」
円に取り成されても桃吾の怒りは未だ冷めやらない。
「おまえら今日の試合、わかっとんのか!?ええか、リトル最後の試合だったんやぞ!」
溜まりかねたように桃吾が両腕を広げて振り返る。桃吾の言う通り、今日の試合は3人にとって所属する寝屋川ファイターズリトルリーグでの最後の試合だった。3人とも4月からは中学生。U12としての試合は今日で終わり、4月からはU15として戦っていかなくてはならない。
「おまえら、U12の小6で勝てないんなら、U15でなんてなぁ・・・!」
桃吾が説教を始めようとしたその時、
「寝屋川ファイターズの雑魚どもやんか!」
という言葉が3人の耳に飛び込んできた。

3人の振り向いた先には、敵チーム『東大阪ウイングス』のメンバーが数人、ニヤニヤと笑いながら突っ立っていた。年の頃は京香たちと同じくらい、学区が違うために面識はないがきっと小学6年生だ。残酷な無邪気さで、京香たちをからかおうと声をかけてきたのだ。
「おん?なんや?おまえら」
不穏な空気を醸し出し、メンチを切り出す桃吾。元々悪い目つきが更に鋭くなっている。
「俺らを忘れんなや!今日おまえらのチームに勝った『東大阪ウイングス』やんか!」
一触即発の空気に、思わず京香は俯いてしまう。京香はこうした人の悪意に触れるのがとても苦手だった。この人たちとの話早く終わらないかな、と嵐が過ぎ去るのを待とうとしている。
「おう、今日は世話になったなぁ!」
人当たりのいい円は明るく返事をする。円だってできるだけ衝突は避けたい。ただ一人、桃吾だけが売られた喧嘩は買ってやるとばかりに徹底抗戦の構えを取っている。
「おまえら、わしらになんか用か?」
「用なんぞあるかい!ザコザコチームのヘボがイキり散らしてるから、何考えとんじゃと思って声かけただけじゃ」
「おおん?誰がザコザコチームなんや?」
「桃吾、やめなよ!」
元々機嫌が悪いところに喧嘩を吹っ掛けられ、三白眼で東大阪ウイングスのメンバーを睨みつける桃吾。平和主義の京香は波風を立てまいと、必死で桃吾を諌める。この状況、短気な桃吾が何をしでかすかわかったものではない。
「ホームランの1本も打てん寝屋川はザコザコやろうがい!」
「おまえらんとこの打者もホームラン打っとらんやろうが、何言うとんのや、病気か?」
「そっちは全員6年やのに、良い打者の1人もおらんのか」
「キッショ、目ェ腐っとんのか?ウチがなんぼ塁に打者出したか数も数えられんのか?アホウイングスのガキが!」
口の悪い桃吾と東大阪ウイングス所属の少年の間で言い争いが始まってしまう。いつものことかと鷹揚に眺める円に反して、京香はなんとか場を収めようとオロオロしている。
「寝屋川には良い選手がおらんから、女まで引っ張り出して!女なんか使とるから勝てへんのや!」
少年の子供じみた暴言は京香の存在にまで及んだ。野球は圧倒的に男性プレイヤー人口の多い競技だ。寝屋川ファイターズの紅一点、ベンチ入りまでしている京香のことがもの珍しく映ったのだろう。不躾に指を差されて、京香はビクリと震える。
「は?」
桃吾の雰囲気が変わる。吊り目を大きく見開き、今までの苛立ったような表情とは打って変わって能面のような無表情になる。桃吾をよく知る京香は息を呑む。この顔は、桃吾が本気でキレた時の表情だ・・・!
「なんや?おまえ、なんて言ったんや?女なんかって言ったか?今。京香のことか?」
「ちょ、ちょっと桃吾」
桃吾の気配が変わったことを察知して、京香が引き留めるように桃吾のユニフォームを掴んだ。しかし、京香のささやかな戒めなど何の抑止力にもならない。
「おう、何度でも言ってやるわ!野球もロクにできん女なんか使とる女々しいチームだから、おまえら負けるんや!」
「桃吾!!」
京香の甲高い悲鳴が上がるのと、桃吾が軽口を叩いた少年に飛び掛かるのが同時だった。東大阪ウイングスのメンバーから驚いたような声が上がる。流石の円も焦ったようだが、こうなってしまうと子供の力では止められない。2人の少年はくんずほぐれつしながら、団子になって罵り合う。
「謝れ!京香に謝れ!」
「何ムキになってんじゃこのアホ!」
「野球もロクにできん女って言いくさったの、取り消せって言うとんのや!」
どうやら桃吾の方が優勢だったが、京香はとても見ていられなかった。自分のせいで桃吾が取っ組み合いに巻き込まれてしまった・・・!思わず目を覆い、こわごわと指の隙間から見守る。
「おい桃吾!その辺にしときやあ!」
「こんガキャ、お前そっちの腕持て!止めるんや!」
東大阪ウイングスの他のメンバーも慌てたように、この鬼気迫る大喧嘩を止めに入った。

寝屋川公園のベンチに腰掛けながら、桃吾はブスッとした顔でむくれていた。額には青アザが目立ち、頭にはいくつかコブをこさえている。口からは血がダラダラと垂れて顎を伝っている。水道の水で冷やしたハンカチを絞りながら、京香が駆けてくる。
「桃吾、コレ・・・」
桃吾は無言で濡れたピンクのハンカチを引ったくると、血にまみれた顔を拭いた。
「ゴメンね桃吾・・・私のせいでケガさせちゃって」
「ハッハッハ!気にすんなや京香、桃吾のマヌケ、口ん中切りよって派手に血が出ただけじゃけんのぉ」
円が笑い声を上げる。桃吾の性格上、こういうことはよくあるとは言わないまでも初めての事態では無かった。桃吾と付き合いの長い円にとって、こんなことは慣れっこだった。
「ボケぇ!人が流血してんのに笑うヤツがあるかい!」
元気な桃吾の声を聞いて、京香は少し安心する。とはいえ、自分が原因で桃吾がケガをしてしまったことに変わりは無い。
「桃吾・・・ほんとゴメン・・・私ったらいつも桃吾の足引っ張ってばかりで・・・」
京香の曇った顔を見て、桃吾は怒ったように声を張り上げた。
「京香、謝るな!おまえが謝らなならんことなんか1個もないわ!」
「そうやぞ京香、桃吾が勝手にいって勝手に怪我したんやからな」
しょんぼりとしている京香を勇気づけるように、円が微笑む。どっしり構えている円はこういう時には特に頼り甲斐がある。
「どう考えても東大阪ウイングスのキショカスが悪いやろうが!シャキッとしいや!」
一方、桃吾は怒り心頭といった様子だ。そんな桃吾に京香は思わず気圧されてしまう。
「でも、私、あのエラーは本当に悪かったと思ってるから・・・」
ボソボソと反省を口にする京香の言葉に被せるように、桃吾が畳み掛けた。
「おん?何言うとんのや!あの後、京香は打撃で挽回したったわ!東大阪ウイングスが京香のことどうこう言ったったって良い理由なんかあらへんわ!」
桃吾は俯き、震える拳をギュッと握りしめた。痛いくらいに手のひらに爪が食い込んでいる。
「オレはなぁ・・・ムカつくんや!!京香が女だからって、最初っからナメてかかってくるアホが!見下してくるカスが!!」
ベンチの下の地面にポタポタと水滴が落ちた。それは桃吾の汗なのか、それとも・・・。寝屋川ファイターズにおける京香の存在をとやかく言われるのは、何もこれが初めてではなかった。スタメンの中の紅一点というだけで、部外者からは好奇の目を向けられ口さがない者も居る。女性だからといって手加減する者もいれば、逆に負けるわけなしと安く見積もられることもあった。実際、京香は贔屓でも同情でもなく実力で寝屋川ファイターズのスタメンの座を勝ち取っている。その軽快な走りに目を奪われない者はおらず、細い身体から生み出される小学生離れしたパワフルな打撃には大人すら舌を巻いたものだ。桃吾、円はもちろん、寝屋川ファイターズのチームメンバーなら誰もが口を揃えて庵野京香のことを名選手と評するだろう。だからこそ、桃吾は性別を理由に京香が侮られることが我慢ならなかったのだ。
「みんなみんなアホばっかや!京香はええ選手やのに、プレーもよう見んとバカにしくさって!」
そして、おもてを上げるとキッと京香を大きな瞳で見据えた。その黒曜石のような瞳には、鏡のように京香を映っている。京香は思わず身がすくんだ。
「ええか京香、中学ではこんなこと言われんようになろうや!寝屋川ファイターズが最強になればそんなこと言うヤツ誰もおらんくなる!」
「う、うん」
どこまでも真っ直ぐな桃吾の純粋な瞳。桃吾の勢いに呑まれたように、京香は頷く。どことなくその首肯には元気が無い。
「オレと円が最強バッテリー組むからおまえは円の後ろで外野守っとればええ!オレらの野球でアホどもを黙らそうや!」
「うん」
「寝屋川ファイターズのU15の名前を轟かせようや!オレと円、京香がいれば絶対いける!この世代はオレらのもんや!」
「うん」
「な!」
「うん・・・」
やっと桃吾の機嫌が直ったようだ。ニッと嬉しそうに目を細める桃吾は、年相応の無邪気な笑顔だ。一方、京香の表情は曇ったままだった。何か重大な秘密や悩みごとを抱えているようにも感じられる。心なしか、京香の姿はいつもよりも小さくなったようだった。

「ただいま・・・」
京香は自宅に帰ってきたところだった。泥だらけのユニフォームを洗わないと・・・。そこで、はたと思い当たる。そうだ、もうそんなことをしなくても良いのだ。だって、もう二度とこのユニフォームには袖を通さない。リビングからTVの音が聞こえるのに気づき、京香は廊下からリビングを覗き込む。
「あ、お父さん・・・帰ってたんだ・・・」
仕事ばかりで普段はろくに姿を見ることのない父親がソファに腰掛けていた。こちらを振り返ることのない後ろ姿は、とても冷たく無機質に感じられた。
「どうだった?京香」
「あ、うん・・・」
京香はのろのろと答える。
「うん、負けた・・・」
「そうか」
父親の声には何の感情も滲まない。京香の試合に対し、何の期待も興味も持っていない。もちろん、こちらを振り返ることも無い。
「気は済んだのか?」
「うん・・・」
京香は足元に目を落とす。今の自分の言葉が本当かどうか、いまいち自信が無い。自分で決めた答えだけど、本当に私、これで良かったんだっけ?そんな気持ちに水を差すように、父親の低い声が降ってくる。
「これで満足か?女の子が野球できるのは、せいぜい今くらいまでだからな。女は甲子園に出られない」
それはとても冷たい宣告だった。しかし、京香にとってはわかりきっていたことでもあった。
「うん・・・わかってる」
吐き出すように答えると、京香は自分の部屋へトボトボと去った。部屋着に着替えるために、ユニフォームを脱ぐと涙がこぼれた。もしも自分の性別さえ違えば、ずっとずっと白球を追いかけていられたのだろうか?そんなIfの考えを振り払うようにブンブンと首を左右に振った。そんなことを考えたって、仕方が無い。これが現実なのだから・・・。わかっていると何度自分に言い聞かせても、京香は脱いだユニフォームのことを直視できなかった。

「・・・というわけで、寝屋川ファイターズを卒団するみんなを拍手で送り出しましょう」
中学校からは受験を見据えた勉強が始まる。野球は小学生で卒業して、学業に打ち込む選択をする者も少なくない。監督から紹介される卒業メンバーの中に京香もいた。監督の激励の言葉を聞きながら、京香はとても顔を上げられなかった。桃吾と円はいったいどんな顔をしているんだろう?チームメンバーの前で別れの挨拶をした後、京香は逃げるように帰路に着いた。どうか、放っておいて欲しかった。自分のことはもう死んだものと思って欲しいくらいだった。それくらい、身を切られるこのお別れがつらかった。特に、あの2人にはとても合わせる顔が無い・・・という願いも虚しく、聞き慣れた声が背後から投げかけられた。
「京香〜〜〜!!!」
「ひっ・・・!」
恐る恐る振り向いた先には、怒ったように目を見開いた桃吾と真面目な顔の円が立っていた。
「聞いとらんっ!!!」
怒ったような、というより、怒っていること間違いナシの桃吾は瞳を爛々と輝かせている。
「ゴメン、桃吾」
「謝るなって何べん言わせんねん!ちょけとらんで、監督に言って卒団撤回しぃや!」
「桃吾、ゴメン、ゴメンね。でも、私、決めたんだ」
京香の決心の言葉を聞いて、3人の間に沈黙が流れる。烏の声が遠くで聞こえる。ややあって、事態を理解した桃吾が再度息を吸い込んだ。
「知らんわ!なんでオレに何も言わんのや!!」
普段桃吾に怒鳴りつけられることの多い京香だが、ここまで怒っている桃吾も珍しい。あまりの気迫に京香の身体が震える。
「誰かにいじめられたんか!?また他チームのアホに何か言われたんか!?オレに言うたれや!オレが誰にでもいったるさかいに!」
「あの、別に誰かに言われたからじゃないの。お父さんと相談して。自分でも考えて。それで卒団することにしたんだ・・・」
京香は桃吾を宥めるように言葉を紡いだ。なかなか言葉が出てこず、もじもじと指を擦り合わせる。
「ホントは桃吾と円に予め伝えなきゃいけなかったんだけど・・・なんて言えばいいか、私、わからなくて・・・。今日まで言い出せなくてゴメンね、2人とも」
「知らんわ!!!」
腹に据えかねた桃吾の馬鹿でかい声が、空気をビリビリと震わせる。
「この3人で、U15で、寝屋川ファイターズを最強チームにするって夢はどうなるんや!!」
「なぁ、京香。どうして卒団なんや?」
まだ何かもの言いたげな桃吾を抑えて、円が優しい声で問いかける。その穏やかな瞳を見ると、京香は円にならなんでも打ち明けられそうな気がした。京香がおずおずと語り始める。
「桃吾、円、あのね。私はここまでみたいなんだよね。野球選手の子供でも、女の子は甲子園に行けないんだよ。覚えてる?1年の時、私は誰よりも足が速かったじゃない?でもさ、今は桃吾の方が速いよね」
「関係あるかい!」
京香の言葉が終わるのを待たず、堪えかねたかのように桃吾が喚く。
「京香は寝屋川ファイターズの4番打者やろうが!!おまえがいなくなってどないすんねん!ええか、3人で頑張れば絶対なんとかなるに決まってる!」
夕陽が桃吾の顔に差す。夕陽に照らされた桃吾の瞳は燃えるようだ。桃吾のあんなに真剣な顔をグラウンドの外で見たことがあっただろうか?
「京香、諦めんな!女とか男とか、どうでもええわ!おまえの打撃を見れば、おまえを女だなんだってバカにしてたヤツらもみんなシッポ巻いて逃げ出すに決まっとるわ!」
京香は目を見張る。桃吾は大きな瞳にいっぱい涙を溜めていた。その涙をこぼさないように、めいっぱい目を見開いてこちらを見ている。京香が桃吾の涙を見たのは、これが初めてだった。
「おまえの走りが落ちとるんやない!オレが速すぎるんや!ええか、京香の走り込みが足りんのや・・・!」
こう言ってはいるが、きっと桃吾も本心では気づいているだろう。1年の時はあんなに速かった京香を、今では軽々と桃吾が追い越せることに。寝屋川ファイターズで1番を誇っている京香の打撃だが、6年に上がってからはホームランの本数を円に抜かされる試合も増えてきたことに。そして、それは日を追うごとに顕著になっていったことに。華奢な少女の体躯では、第二次性徴期を迎えつつある少年の体格には運動能力では敵わない。筋肉量も骨格も最初から違う。もう、京香は桃吾と円とともに走ることはおろか、ついていくことすら叶わない。京香の頬にもいつの間にか温かな涙が伝っていた。泣き顔なんて見られたくない。京香は自宅の方角へ踵を返す。
「桃吾、円。今まで一緒に野球やってくれて、ありがとうね」
「アホなこと言っとらんで、野球やるぞ!オレの言うことが聞けんのか!?」
「京香〜!気が向いたらよぉ、またいつでも野球やろうな〜!」
鋭い桃吾の声と、朗らかな円の声を背中越しに聞く。もう桃吾にこんなに怒られることも無いのかもしれない。最初は怖いと思っていたが、彼は京香のために本気で立ち向かってくれる友達思いの男の子だ。いつも優しくて穏やかなムードメーカーの円には、臆病な京香も安心感を抱いていた。ホームに帰ってきた京香を彼が笑顔で迎えてくれる度に嬉しくなり、仄かな憧れを抱いたものだ。そして、寝屋川ファイターズのみんな。ともに喜びともに悲しんでくれる、とても良い仲間だ。京香は涙を拭いた。とてもとても良い仲間だった。

それが京香の寝屋川ファイターズでの最後の日となった。

***

キャッチャーミットの乾いた音が五月晴れの空に響く。黒髪の三白眼の青年がボールを投げる。堂に入った投球モーションから、彼が筋金入りの投手であることがわかる。ぎこちなくボールを受け止めている少女は、長くしなやかな手足で球に飛びついていた。彼女がボールを追って体を動かすたびに、焦茶色のウェーブがかった髪がサラサラと揺れる。実のところ、彼女はそんなにボールを追いかけて走り回る必要は無かったのだ。青年は見事に彼女の取りやすいボールを放ってくれるからだ。青年はもう何回目かのボールを投げながら、面白くなさそうに口を開いた。
「結局、野球辞めやがって!オレのあの日の言葉をどうしてくれんねん」
すっかり成長した少女、京香は少し息を切らしながら拗ねたように答える。
「だってしょうがないじゃない、私中学からは勉強頑張れって言われてたしさ」
「けっ、お前の頭じゃ勉強したとこでさしていいとこいけんやろがい」
高校生になっても桃吾の口の悪さは変わっていなかった。変わっていないどころか、小学生の頃よりもキレが増したような気すらする。京香も以前ほど桃吾のことを怖がらなくなっていた。中学の頃に桃吾から告白されて以来、今では恋人としての付き合いも長い。昔から一緒にいる桃吾との関係性に名前がついたようなものなのだが、桃吾の自分への好意はひしひしと感じているし、桃吾の口の悪さに隠れた不器用な優しさにも大きくなってから気付けるようになってきた。まったく子供っぽいんだから、と思うことが無くも無い。
「せっかくええ肩もっとったのに、鈍りに鈍りきっとるやろがい」
桃吾はボールを受けながら、つまらなそうな声を上げる。
「桃吾が強くなりすぎたんだよ」
京香の言う通りだった。今や桃吾は雨谷高校甲子園選抜選手として高校球児界に名を馳せていた。元々野球の上手い子供だったが、恵まれた体格と日々の研鑽で磨かれた今の桃吾にとって、中学入学と同時に野球を辞めた京香の球など眠っていても取れるだろう。
「京香なら野球続けとけば、綾瀬川なんて目じゃない選手になれたと思うで」
桃吾はU12日本代表チームで東京の綾瀬川次郎と出会い、それ以来ライバル視している。その頃綾瀬川と桃吾の間で一悶着あったとか無かったとか、円からチラッと聞いた覚えがある。綾瀬川を追って東京の雨谷高校に入学した桃吾は地元寝屋川を離れてしまったが、今日は実家に顔を出すついでに小学生の頃よく練習をしたグラウンドで京香とキャッチボールをしている。
「もう、桃吾ったら何言ってるの!綾瀬川くんってあの綾瀬川くんでしょ?私が敵うわけないじゃないの。桃吾だって、綾瀬川くんと同じチームで良かったでしょ?」
綾瀬川次郎といえば、天才野球少年の綾瀬川次郎である。その評判は野球を辞めた京香の耳にさえ入っている。あの日スッパリ野球を卒業した京香は円とともに金煌大阪高等学校に進んだ。マネージャーとして野球部に入るという野球に縋り付くような真似をしたくなかった京香は、畑違いのバレーボール部に所属している。確かに球技だが、バレーボールは野球とは似ても似つかない。野球とキッパリお別れして、野球に打ち込んだあの日々を忘れるように今は日夜大きな球を両腕で受け止めている。
「けっ、何言うとんねん!あんないけ好かんヤツ!京香と組んどった方がなんぼかマシや!」
綾瀬川のことを思い出したのか、桃吾の語気が荒くなる。八つ当たりするかのように力任せに投げた球はバン!と重い音を立て、京香のミットに命中した。
「いたたたた・・・」
京香が手を押さえて顔を顰め、桃吾が焦ったように声を掛ける。
「わ、悪い!強すぎたか?」
「うん、ちょっとだけ痛かったかな。少し休憩したいな」
息の上がった京香はキャッチャーミットを外して額の汗を拭いて空を見上げる。空は高く、気持ちの良い風が吹き渡っている。京香は目を細めた。
「私、もう桃吾の球、受けられないよ。手加減して」
「はは。今となっちゃ、手加減した球じゃないと京香は受けられんか」
全力でのキャッチボールは、体格差の無い小学生の頃は楽しい遊びのひとつに過ぎなかった。あの頃を思い出したのか、桃吾は笑い声を上げた。その声には、諦めにも似た無念さが滲んでいるようにも聞こえる。
「そうだね。もう私のいる場所は観客席がちょうどいいみたい」
「さみしい話やな」
残念そうな声の桃吾とは裏腹に、京香は吹っ切れたような表情をしていた。もう自分は何があってもバッターボックスに立つことはないことを京香は理解していた。あそこは選ばれた人の場所で、それは桃吾であって、円であって、綾瀬川であって、決して京香の場所ではないのであった。
「でも、観客席からでも桃吾と円のことは応援できるからさ」
そう、隣に並んで一緒に戦うことは出来なくても、離れた場所で見守ることはできる。元野球少女がかつての仲間を恋人として、友達として励ましに行くくらいは良いだろう。所在なさげに地面を蹴っていた京香は、思いついたように声を上げた。
「私、甲子園に行ってみたいな。桃吾の試合、絶対見に行くよ。頑張ってね」
「そうやな」
桃吾は唇を噛み締める。
「でもオレ、京香とは甲子園のグラウンドに行けると思っとったわ」
俯いた桃吾の絞り出すような声を聞き、京香は寂しげに微笑んだ。甲子園はまだまだ先、5月のキラキラとした日だった。

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