第41話
言葉は、隠すためにあるんじゃない
前話:新しい資料の中にあった「理解度が低い層」という言葉を、優作は「初めて聞く人にも伝わるように」と言い換えた。前の自分なら、角を取るために言葉を丸めていた。今の自分は、誰かの位置を下げないために言葉を選ぼうとしていた。変わった人は、今度は見られる。優作はその視線の中で、少しだけ言葉を選び直した。
「中村、この前の言い換え、営業側でも評判よかったぞ」
朝の共有が終わったあと、真壁が資料を閉じながら言った。
優作は顔を上げる。
「言い換え?」
「若手向け説明会のやつ。“初めて聞く人にも伝わるように”ってやつ」
「ああ」
桐谷が椅子を回した。
「中村、言葉の整体師じゃん」
黒川が画面から目を離さずに言う。
「整体ではなく修正です」
桐谷が笑う。
「黒川さん、そこは乗ってくださいよ」
「必要性を感じません」
「ですよね」
軽い会話だった。
優作も少し笑った。
前より、笑うタイミングは戻ってきていた。
ただ、自分の言葉が誰かに拾われることには、まだ少し慣れなかった。
言い換えが評価された。
それは悪いことではない。
でも、少しだけ胸の奥に引っかかった。
評価されたものは、次に使われる。
使われるものは、時々、便利になる。
午前十一時前、営業部の大槻からチャットが入った。
中村さん、少し相談です。
先日の説明会の件で、対象者の表現を整えたいです。
今から十数分だけお時間いただけますか?
優作は返信した。
大丈夫です。十一時十五分でお願いします。
送ってから、少しだけ手が止まった。
大丈夫です。
自分が自然に打ったその言葉が、画面の中で妙に浮いて見えた。
消すほどではない。
でも、軽くもない。
十一時十五分。
オンラインの画面に大槻が映った。
相変わらず明るい顔だった。
「すみません、急に」
「いえ、大丈夫です」
また言ってしまった。
優作は、少しだけ姿勢を正した。
大槻は資料を共有した。
説明会の対象者リストだった。
「今回、時間の都合で、若手全員じゃなくて一部だけに絞ることになりまして」
「はい」
「で、外れる人もいるんですけど、そこをそのまま“対象外”って言うと、ちょっと角が立つじゃないですか」
大槻は笑った。
悪気のない笑いだった。
「なので、前向きな感じに整えられないかなと」
優作は黙って画面を見た。
資料には、こう書かれていた。
対象外社員への案内文
今回は選抜対象者を中心に実施。対象外の社員には、必要に応じて後日共有予定。
選抜対象者。
対象外。
必要に応じて。
どれも業務でよく使われる言葉だった。
けれど、並ぶと少し冷たかった。
大槻が続ける。
「中村さん、こういうの得意ですよね」
その一言が、優作の胸に触れた。
褒められている。
頼られている。
でも、どこかで別のものも渡されている気がした。
面倒な摩擦。
言いにくい理由。
外すことへの後ろめたさ。
それを、きれいな言葉で包む役目。
優作は、すぐには返事をしなかった。
言葉を選ぶことは、痛みを消すことではない。
痛みがある場所を、見えなくしないために選ぶ言葉もある。
「まず、事実として」
優作はゆっくり言った。
「今回は、参加できる人と参加できない人がいる、ということですよね」
大槻は頷いた。
「そうですね。ただ、参加できないって言うと、ちょっとネガティブなので」
「はい」
優作は資料を見た。
「“段階的に参加機会を設ける”とか」
言いかけて、止まった。
言葉は出る。
いくらでも出る。
対象を再整理する。
優先対象を設定する。
今回は一部メンバーから実施する。
参加機会を段階的に拡大する。
どれも嘘ではない。
でも、少しずつ何かを隠している。
美月が、隣の席からこちらを見ていた。
声は聞こえていないはずだった。
でも、優作が止まったことには気づいていた。
大槻が言う。
「そんな感じです。前向きに見えるとありがたいです」
前向きに見える。
その言葉で、優作は目を上げた。
「大槻さん」
「はい」
「前向きに見せることと、納得できるように伝えることは、少し違うと思います」
大槻の表情が、少しだけ止まった。
「というと?」
優作は、自分の声が硬くなりすぎないように気をつけた。
でも、薄めすぎないようにも気をつけた。
「今回は全員参加ではない、という事実は隠さない方がいいと思います」
「はい」
「そのうえで、なぜ一部から始めるのか。今後どう共有するのか。参加しない人に何が渡されるのか。そこを入れた方がいいです」
大槻は腕を組んだ。
「なるほど」
画面越しの沈黙が、少し重くなった。
前なら、ここで優作は笑っていたかもしれない。
「言い方だけの問題ですね」
そう言って、相手を楽にしていたかもしれない。
でも、今はそれができなかった。
言い方だけの問題ではない時に、言い方だけで済ませると、あとで誰かが傷つく。
その傷ついた顔は、きっとこの場にはいない。
だからこそ、見えないまま処理される。
優しい言い方が、いつも相手のためとは限らない。
言う側が嫌われないために、きれいな言葉を使うこともある。
大槻は少し困ったように笑った。
「いや、もちろん隠したいわけじゃないんですけどね」
「はい」
「ただ、現場的には、そこまで重く受け取られても困るというか」
その言葉に、優作はすぐに返さなかった。
大槻は悪い人ではない。
現場を回している。
忙しい。
不満も受ける。
説明の手間も抱える。
だから、摩擦を減らしたい。
それは分かる。
分かるからこそ、危なかった。
分かることを理由に、言葉を隠す側へ回りそうになる。
優作は、資料の文面を少し直した。
今回の説明会は、運用確認を目的として一部メンバーから実施します。
参加対象とならない方にも、実施後に内容と資料を共有します。
今後の展開については、今回の実施結果を踏まえて改めて案内します。
優作は、それを画面に表示した。
「こういう形はどうでしょう」
大槻が読む。
「対象外って言葉は使わないんですね」
「はい。ただ、全員参加ではないことは隠していません」
「なるほど」
「参加しない人にも、何が共有されるのかが見えた方がいいと思います」
大槻はしばらく画面を見ていた。
「うん。これならいけそうです」
少しだけ声が戻った。
「ありがとうございます。やっぱり中村さんに聞いてよかったです」
優作は、その言葉を受け取った。
でも、前ほど素直には喜べなかった。
聞いてよかった。
その中に、何を求められていたのか。
これからも、自分は見ていかなければいけない。
会議が終わると、美月が席に近づいてきた。
「今の、何の相談でしたか」
優作は簡単に説明した。
美月は黙って聞いていた。
最後まで聞いてから、短く言った。
「便利にされそうですね」
優作は少し笑った。
「やっぱり、そう見えましたか」
「はい」
美月は資料に目を落とす。
「でも、断ったわけではないんですね」
「断る話ではないと思いました」
「そうですね」
少しだけ間があった。
美月は続けた。
「言葉を整えること自体は、悪くありません」
「はい」
「でも、何を隠すために整えるのかは、見た方がいいです」
その言葉は、優作の中に静かに入ってきた。
強く刺されたわけではない。
でも、残った。
桐谷が横から顔を出した。
「中村、ついに言葉の包装業者になった?」
美月がすぐに言う。
「包装ではありません」
桐谷が肩をすくめる。
「怒られた」
黒川が淡々と口を挟む。
「包装という表現は不正確です。今回は情報設計です」
桐谷が黒川を見る。
「黒川さんが言うと、急に業務委託っぽいっすね」
黒川は答えない。
佐伯が少しだけ笑った。
優作は、その小さな笑いを見た。
場は軽くなった。
でも、軽くなりすぎてはいなかった。
それが少しだけ、よかった。
夕方、大槻から修正版の案内文が送られてきた。
優作が提案した文面が、ほぼそのまま使われていた。
ただ、最後に一文だけ追加されていた。
今後の参加機会についても、順次ご案内いたします。
優作はその文を見て、少し安心した。
隠したのではなく、渡した。
全部ではない。
完璧でもない。
でも、相手が後から置いていかれたと感じないための言葉には、少し近づいた気がした。
言葉は、隠すための布ではない。
本当のことを、相手が受け取れる形で渡すための手だ。
帰り際、真壁が優作の席の横で足を止めた。
「大槻の件、見たぞ」
「あ、はい」
「うまく整えたな」
優作は少し考えた。
「整えたというより」
真壁が待つ。
「隠さない形を探した感じです」
真壁は少しだけ頷いた。
「それ、面倒だな」
「はい」
「でも、必要だな」
「はい」
真壁はそれ以上言わず、鞄を持って出ていった。
優作はパソコンを閉じた。
言葉を選べるようになると、言葉を求められる。
言葉を求められると、時々、誰かの責任まで渡される。
やわらかくしてほしい。
角が立たないようにしてほしい。
前向きに見えるようにしてほしい。
そのたびに、考えなければいけない。
これは、相手のための言葉なのか。
それとも、言う側が傷つかないための言葉なのか。
優作は、机の上の資料を鞄にしまった。
言葉は便利だ。
だからこそ、怖い。
きれいにすればするほど、見えなくなるものがある。
でも、きれいにしないまま渡せば、受け取る人を傷つけることもある。
その間に立つこと。
たぶん、それが今の自分に求められていることなのだと思った。
うまく言う人ではなく。
隠さずに渡す人でいたい。
優作は電気の落ちたオフィスを振り返り、静かにドアを閉めた。
第42話へ続く。