第40話
変わった人は、今度は見られる
前話:晴れた日のぎこちなさの中で、優作たちは少しずつ日常に戻り始めた。前と同じように笑えないこと。前と同じ言葉を選べないこと。元に戻らないことを、壊れたとは限らないこと。優作は、変わったからといって別人になれるわけではなく、前と同じ言葉を選べない自分に気づいていく。
「中村、ちょっといいか」
午後二時過ぎ、真壁に呼ばれた。
会議室ではなく、窓際の小さな打ち合わせスペースだった。
机の上には、新しい案件の概要資料が置かれている。
営業部から回ってきた、社内説明会の企画案。
大きな問題はない。
ただ、一文だけ、少し引っかかった。
対象者:若手社員中心。
理解度が低い層にも伝わるよう、表現を平易にする。
優作は、その文字を見た。
理解度が低い層。
よくある言葉だった。
悪意はない。
資料の中では、対象を整理するための言葉にすぎない。
それでも、喉の奥に少し残った。
真壁が言う。
「これ、営業側は急ぎで出したいらしい。言い方だけ整えれば通ると思う」
桐谷も資料を覗き込む。
「若手向けに噛み砕くって意味っすよね」
黒川が頷く。
「意図としては問題ありません。ただ、文言は変えた方が安全です」
美月は黙っていた。
佐伯も、画面を見ている。
優作は口を開こうとして、止まった。
その瞬間だった。
全員の視線が、こちらに向いた気がした。
気のせいではなかった。
真壁の目。
桐谷の目。
黒川の目。
美月の目。
佐伯の目。
誰も責めていない。
誰も急かしていない。
でも、見ていた。
優作が、どう言うのか。
前みたいに丸めるのか。
今度は強く止めるのか。
誰かを守ろうとして、また誰かを黙らせるのか。
変わったはずの中村優作が、ここで何を選ぶのか。
その空気が、優作の前に静かに置かれていた。
口を開く前に、喉が乾いた。
視線が集まる音がした気がした。
そんな音があるはずないのに。
人は変わると、自由になるとは限らない。
今度は、変わった姿のまま失敗しないかを見られ始める。
「中村?」
真壁が呼ぶ。
優作は、資料から目を離した。
「うん」
声が少し遅れた。
「この言い方は、変えた方がいいと思います」
そこまでは言えた。
でも、その先が出なかった。
どう変えるのか。
どこまで言うのか。
ただ言葉を直せばいいのか。
それとも、この言葉が出てきた背景まで見た方がいいのか。
前なら、もう少し早く言えた。
「一旦、表現だけ整えよう」
そう言っていた。
あるいは、
「悪気はないと思うので」
と、先に逃げ道を作っていた。
でも今は、そのどちらも怖かった。
美月が静かに言った。
「急がなくていいです」
優作は美月を見た。
美月は資料を見ていた。
「正しい言い方を、すぐ出さなくてもいいと思います」
その言葉で、優作は自分が急いでいたことに気づいた。
変わった自分を見せようとしていた。
前とは違う自分を、間違えずに出そうとしていた。
ここで正しく言えなければ、また戻ったと思われる。
ここで弱ければ、何も変わっていないと思われる。
ここで強く言いすぎれば、今度は別の誰かを黙らせる。
そう考えているうちに、言葉が喉の前で止まっていた。
桐谷が、少しだけ笑った。
「変わった中村の初回限定版、みんなで見すぎたかもな」
真壁が眉を寄せる。
「言い方」
「いや、悪い意味じゃなくて」
桐谷は、優作を見た。
「見ちゃうじゃん。やっぱ」
その言葉は軽かった。
でも、軽いだけではなかった。
佐伯が、画面から目を上げた。
「僕も、見てました」
小さな声だった。
優作は佐伯を見る。
佐伯はすぐに視線を落とした。
「責めたいわけじゃないです」
少し間があった。
「ただ、中村さんが何を言うのか、気になりました」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも、それは佐伯のせいではなかった。
見られていることが痛いのではない。
見られて当然のことを、自分がしてきたのだと思い出すことが痛かった。
期待の目は、責める目よりやさしい。
だから、逃げ場がない。
黒川が資料を指差した。
「文言としては、“前提知識に差がある層”も固いですね」
桐谷がすぐに言う。
「黒川さん、それもまあまあ刺さります」
「事実を表現しただけです」
「事実って、たまに凶器なんすよ」
美月が少しだけ口元を動かした。
真壁がペンを持つ。
「じゃあ、どうする」
優作は、もう一度資料を見た。
理解度が低い層。
その文字は、まだそこにある。
悪意があるわけではない。
でも、受け取る人が見たら、自分たちのことを低く見られているように感じるかもしれない。
優作はゆっくり言った。
「“初めて聞く人にも伝わるように”でどうですか」
真壁が書く。
「初めて聞く人にも伝わるように」
桐谷が頷く。
「あ、それなら角ないな」
黒川も見た。
「意味は保てています」
美月が言う。
「対象を下げずに、説明の責任をこちら側に置けますね」
佐伯は、画面を見ながら小さく頷いた。
優作は、その反応を見た。
何かが解決したわけではない。
大きな成長を示したわけでもない。
ただ、ひとつの言葉を置き換えただけだった。
それでも、少しだけ息が戻った。
前の自分なら、角を取るために言葉を丸めた。
今の自分は、誰かの位置を下げないために言葉を選ぼうとした。
似ている。
でも、少し違う。
その違いは、外から見ればほとんど分からないかもしれない。
ただ、自分の中では、まったく違っていた。
真壁が資料を閉じる。
「じゃあ、この方向で返す」
「はい」
優作は答えた。
会話は終わった。
なのに、優作の胸にはまだ、見られていた感覚が残っていた。
桐谷が出入口のところで立ち止まる。
「中村」
「うん」
「変わったやつって、見られるんだな」
優作は少し笑った。
「今、実感した」
桐谷は肩をすくめた。
「有名人じゃん」
「そんな良いものじゃない」
「だな」
雑な返事だった。
でも、その雑さに少し救われた。
夕方、優作は自席でさっきの資料をもう一度見た。
“初めて聞く人にも伝わるように”
たった一文。
でも、そこに少しだけ今の自分がいた。
失敗もするだろう。
また焦るだろう。
また、誰かの目を気にするだろう。
変わった人として見られることに疲れて、前の席に戻りたくなる日もあるだろう。
それでも、戻ったふりだけはしたくなかった。
変わった姿を見られるのが苦しいのは、まだ変わりきっていない自分を、自分が一番知っているからだ。
帰り際、佐伯が席の近くを通った。
優作は顔を上げた。
佐伯は少し迷ってから言った。
「さっき、何を言うのか見てました」
優作の指が、机の上で止まった。
佐伯は続けた。
「でも、分かりやすかったです」
優作は、すぐに返事を探した。
ありがとう。
そう言いかけて、やめた。
「そう言ってもらえると、確認できます」
佐伯は少しだけ不思議そうな顔をした。
「確認、ですか」
「うん。正解だったとは思っていないけど」
優作は資料に目を落とした。
「少なくとも、誰かを下げない言い方には近づけた気がする」
佐伯は少し黙った。
「そうですね」
それだけ言って、自分の席へ戻っていった。
優作は、その背中を見た。
褒められたとは思わなかった。
許されたとも思わなかった。
でも、見られていることを、少しだけ恐れずにいられた。
オフィスの窓には、夜の自分が薄く映っている。
変わった人の顔ではなかった。
前と同じ顔でもなかった。
どちらにもなりきれていない顔。
優作は、その顔を少しだけ見て、パソコンを閉じた。
変わった人は、今度は見られる。
でも、見られることから逃げなければ、少しずつ、変わった自分も自分になっていくのかもしれない。
第41話へ続く。