第42話
それは、僕が言うことではありません
前話:優作は、説明会の案内文を「前向きに見えるように整えてほしい」と頼まれた。けれど、言葉をきれいにすることと、都合の悪い事実を隠すことは違う。優作は、参加できない人がいる事実を隠さず、それでも受け取りやすい言葉に変えた。言葉は、隠すための布ではない。本当のことを、相手が受け取れる形で渡すための手なのだと、少しだけ分かった。
「中村さん、また少しお願いしてもいいですか」
大槻からチャットが入ったのは、昼休みが終わってすぐだった。
優作は画面を見た。
また、という言葉が少しだけ引っかかった。
前回の案内文の件は、うまくいったらしい。
大きな不満も出なかったと聞いている。
それ自体はよかった。
でも、うまくいったものは、次から頼まれやすくなる。
便利なものは、便利なまま置かれない。
優作は返信した。
内容によりますが、確認します。
少しして、大槻が資料を持って席まで来た。
今日はいつもの明るさが、少しだけ薄かった。
「すみません、ちょっと微妙な話で」
優作は椅子を引いた。
「はい」
大槻は声を落とした。
「営業部の若手で、森田っているんですけど」
優作は名前だけ聞いたことがあった。
説明会の対象メンバーにも入っていたはずだ。
「次回の説明パート、森田には一旦外れてもらおうと思っていて」
「はい」
「本人、やる気はあるんです。ただ、話が少し長くなりがちで。現場からも、もう少し整理してから出した方がいいんじゃないかって声があって」
大槻はそこで一度、言葉を切った。
「で、僕が言うと、ちょっときつく聞こえると思うんですよ」
優作は、次に来る言葉が分かった。
分かってしまった。
「中村さんから、やんわり伝えてもらえませんか」
大槻は少し笑った。
困ったような、頼るような笑いだった。
「中村さんの方が、うまく言えると思うので」
優作は、すぐに返事をしなかった。
自分が言えば、たぶん柔らかくできる。
森田が傷つかない言い方も考えられる。
「外す」ではなく「今回は準備の時間を取る」。
「話が長い」ではなく「要点が伝わりやすくなるように整理する」。
いくらでも言える。
いくらでも、きれいにできる。
でも、それは誰の言葉なのだろうと思った。
代わりに言ってあげることが、いつも優しさとは限らない。
誰かの言葉を預かるたびに、その人が向き合う場所まで奪うことがある。
「森田さんには、もう伝えたんですか」
優作が聞く。
大槻は少し視線を外した。
「いや、まだです」
「大槻さんからは?」
「それが、ちょっと」
大槻は頭をかいた。
「本人、最近けっこう前向きで。ここで折れると嫌だなと思って」
「はい」
「だから、中村さんからなら、前向きに受け取れるかなと」
優作は、資料の端を見た。
そこには、森田の名前があった。
役割欄には、発表担当と書かれている。
それを消す。
その事実は、誰かが本人に渡さなければいけない。
その誰かを、今、自分にしようとしている。
悪意ではない。
大槻は森田を傷つけたいわけではない。
むしろ、傷つけたくないから頼んでいる。
だからこそ、断りづらかった。
優作の中に、前の自分が顔を出した。
分かりました。
僕から話しておきます。
大丈夫です。
そう言えば、場は丸くなる。
大槻は助かる。
森田も、たぶん少しは柔らかく受け取る。
自分も、役に立てる。
それなのに、喉の奥が動かなかった。
美月が、少し離れた席からこちらを見ていた。
会話の内容までは聞こえていないはずだった。
でも、優作が返事を止めていることには気づいていた。
その視線に押されたわけではない。
ただ、見られている自分から逃げるように、また「引き受けます」と言うのは違うと思った。
「大槻さん」
優作は言った。
「伝え方は、一緒に考えます」
大槻の顔が少し明るくなった。
「助かります」
優作は続けた。
「でも、伝えるのは、僕ではないと思います」
大槻の表情が止まった。
「え?」
「森田さんが聞くべきなのは、僕の言葉ではなく、大槻さんの言葉だと思います」
少しだけ沈黙が落ちた。
大槻は困ったように笑った。
「いや、中村さんの方が、うまく言えると思ったんですけど」
「たぶん、うまくは言えると思います」
優作は、自分で言いながら少し怖かった。
うまく言える、と認めること。
そのうえで断ること。
どちらも、前の自分には難しかった。
「でも、うまく言えることと、その人が聞きたい人から言われることは、別だと思います」
大槻は黙った。
桐谷が近くで資料を見ていた手を止めた。
黒川も画面から目を離した。
真壁は、何も言わずにこちらを見ていた。
大槻は小さく息を吐いた。
「でも、僕が言うと、たぶん角が立ちますよ」
「はい」
「そこを丸くするのが、中村さんの得意なところじゃないですか」
その言葉に、優作の胸が少し痛んだ。
責められたわけではない。
でも、何かを渡されている。
言い方だけではない。
嫌われるかもしれない場所。
相手の顔が曇るかもしれない時間。
その重さを、自分の手に乗せられている。
うまく言える人のところには、言いにくいことが集まってくる。
でも、それを全部持つほど、優しくならなくていい。
優作は、ゆっくり言った。
「僕が代わりに言えば、言葉はやわらかくなるかもしれません」
大槻は見ていた。
「でも、森田さんからすれば、なぜ大槻さんから直接言われなかったのかが残ると思います」
大槻の目が少し揺れた。
「……そうですかね」
「はい」
優作は頷いた。
「外されることより、本人から言われなかったことの方が残る場合もあります」
大槻は、資料を見下ろした。
明るい顔ではなかった。
少しむっとしているようにも見えた。
困っているようにも見えた。
優作は、その顔を見て、胸がざわついた。
相手を困らせている。
役に立てていない。
助けを断っている。
その感覚は、まだ慣れない。
でも、ここで引き受けたら、大槻は森田と向き合わないまま済んでしまう。
森田も、大槻が何を考えているのか知らないまま、優作の整えた言葉だけを受け取ることになる。
それは、たぶん優しさではない。
「文面は、一緒に作ります」
優作は言った。
「話す順番も、一緒に考えます」
大槻が顔を上げる。
「でも、最初に言うのは、大槻さんの方がいいと思います」
沈黙の後、大槻は小さく頷いた。
「……分かりました」
声は少し低かった。
「じゃあ、言い方だけ相談させてください」
「はい」
優作は資料を手元に引いた。
二人で言葉を作った。
森田を外す、ではなく。
今回は発表前に内容を整理する時間を取ること。
本人の意欲は評価していること。
次回以降、短く伝える練習をしたうえで、改めて発表の機会を作ること。
そして、大槻自身が期待していること。
そこだけは、優作が絶対に消さなかった。
大槻が言う。
「ここ、ちょっと恥ずかしいですね」
「期待している、ですか」
「はい」
「それは、大槻さんが言った方がいいです」
大槻は少し苦笑した。
「厳しいですね、中村さん」
優作は首を振った。
「たぶん、そこを僕が言うと、軽くなります」
大槻は何も言わなかった。
でも、その一文は消さなかった。
夕方、大槻は森田と話したらしい。
詳細は分からない。
ただ、チャットで短く報告が来た。
森田と話しました。
少し落ち込んでいましたが、次回に向けて練習したいと言っていました。
最後に、「直接言ってもらえてよかったです」とも言っていました。
文面、助かりました。
優作は画面を見た。
助かりました。
その言葉に、今度は少しだけ安心できた。
代わりに言ったわけではない。
でも、支えなかったわけでもない。
その間に立てた気がした。
美月が席に来た。
「断ったんですね」
優作は顔を上げた。
「全部は断ってません」
「そうですね」
美月は少しだけ頷いた。
「そこが難しいところです」
「はい」
「突き放すのではなく、返す」
優作はその言葉を繰り返した。
「返す」
「はい」
美月は資料に目を落とした。
「中村さんが持つと、きれいになる言葉はあります」
「はい」
「でも、きれいになりすぎると、誰の言葉だったか分からなくなります」
優作は黙って頷いた。
その通りだと思った。
でも、口にはしなかった。
桐谷が横から顔を出す。
「中村、便利屋卒業?」
優作は少し笑った。
「まだ仮免」
「仮免か。じゃあ、路上気をつけろよ」
黒川が言う。
「職場に路上はありません」
桐谷が黒川を見る。
「比喩っすよ、比喩」
「比喩としても精度が低いです」
佐伯が小さく笑った。
真壁も、少しだけ口元を動かした。
場が軽くなる。
でも、誰かの責任が消えたわけではない。
それが、今日は少しだけよかった。
言葉をきれいにするほど、本人の気まずさまで消えてしまうことがある。
でも、その気まずさこそ、本人が持つべき言葉の重さだった。
帰り際、優作は大槻から送られてきた文面をもう一度見た。
そこには、大槻の言葉が残っていた。
整えた言葉の中に、本人の気まずさも、期待も、責任も、少しだけ残っていた。
完璧ではない。
森田が本当にどう受け取ったのかも分からない。
それでも、少なくとも優作の言葉だけで終わらせなかった。
優作は鞄を持った。
誰かの代わりに言えば、感謝されることがある。
場が荒れずに済むこともある。
自分が役に立ったように感じることもある。
でも、そのたびに、本来向き合うべき人が一歩下がってしまうなら。
その優しさは、少し違う。
優作は電気の落ちた通路を歩いた。
自分の中に、少し冷たいものが生まれた気がした。
でも、それは人を突き放す冷たさではなかった。
誰かの言葉を、誰かに返すための冷たさだった。
優しさにも、持たない方がいい荷物がある。
そう思った。
第43話へ続く。