「いなり寿司は悪くない」

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長距離ドライブの前に、コンビニに寄った。
車の中で食べる軽食を選ぶ。おにぎり、パン、チキン、片手で済むものを各自選んでいく中、運転手はいなり寿司を選んでいた。6個入りのパック。それとプリン。

高速道路も予定に入っている。

どうやって食べるのだろうと思って聞いてみると、「食べさせてくれればいいじゃん」と返ってきた。

当然のように。

確かに、隣で介助することは可能だ。でもその一言の中に、「やってもらうこと」への抵抗のなさを感じた。頼むのではなく、受け取ることへの自然さ、とでも言えばいいか。

高速に乗ってから、自分の食事を終えて、さて次は、と思いながらフィルムを剥がし切る。
「食べる?」
食べる、という。

いなり寿司を一つ、口に運ぶ。パクリとひと口かじり取って、もぐもぐと食べている。私は横目でそれをただ見ている。

もぐもぐ。もぐもぐ。もぐもぐ。もぐ。

飲み込んだのを確認して、残りの半分を口に運ぶ。

もぐもぐ。もぐもぐ。もぐもぐ。

いつも思うが、この人の咀嚼は長い。人の食事を介助すると余計にその長さを感じる。パックを片手に、箸を片手に、そんな格好のまま私はただ待っている。

また口に運ぶ。また待つ。また確認する。また運ぶ。
あと二つ。口に運んだ時、掴み損ねた残りが口元から転がり落ちた。

「あっ」

ごめんも出てこない。「あら、落ちちゃった」と言いながら落ちたものを片付けていると、

「こういう時、謝らないよね。悪いと思ってないんでしょ」

理不尽だな、と思う。つい本音が漏れた。
「そもそもいなり寿司買わなきゃよかったじゃん」

「運転してもらってそういうこと言う? 俺、運転してあげてるんだけど」

ほう、そう来たかと思いながら
「ごめんね」
と一言伝えた。

やってあげている、という感覚の人は、やってもらうことも当然という感覚なのかもしれない。与えることへの抵抗のなさは、受け取ることへの抵抗のなさと、たぶん同じ回路からきている。与え、受け取る。その循環の中に他者を自然に組み込める人がいる。

悪意はない。ただそういう回路がある。

隣でそんなことを想像しながら、私はお稲荷さんを見つめていた。
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