夜が更けるほど。
部屋の中の音は、小さくなっていく。
冷蔵庫の低い唸りと。
遠くの車のタイヤが濡れたアスファルトを切る音。
それだけが、澪の暮らしの輪郭を保っていた。
朝霧澪は、ソファの背にもたれて。
スマホの画面を伏せたまま、呼吸を数えていた。
何かを考えているわけじゃない。
むしろ、考えることを止めたいのに止まらない。
その感じが、胸の奥にずっと残っている。
今日もまた。
誰にも怒られなかった。
誰にも嫌われなかった。
締切も守った。
修正も早かった。
メールの返しも丁寧にした。
会議では空気を読んで、余計な一言は飲み込んだ。
それなのに。
心の中に、静かな違和感だけが残る。
「ちゃんとできた」っていう手応えはある。
けれど「生きている」っていう手応えが薄い。
この差が、最近どんどん大きくなっていく。
澪は自分の手を見た。
指先は乾いて、爪の端が少し欠けている。
忙しさの証拠みたいで、苦笑いが出た。
今日の帰りの電車でも。
吊り革を握りながら、ふと思った。
私は、何を守ってるんだろう。
何を守りたいんだろう。
守りたいものがあるから、頑張ってる。
でも、その守りたいものが何かを。
最近ちゃんと、言葉にできない。
本音が遠い。
近いのに触れない。
そんな感覚。
テーブルの上には、取材メモと校正刷りが重なっている。
机の角に、コンビニの小さなレシート。
そこに書かれた金額すら、今日の澪の体温みたいで。
妙に現実的で、少しだけ寂しい。
澪のスマホが一度震えた。
通知。
でも、画面を見ない。
今は見る気がしない。
見た瞬間に、また誰かの事情が入ってきて。
自分の内側の音が、さらに遠くなる気がした。
ふう。
息を吐く。
肩が少しだけ下がった。
このまま寝ればいい。
寝て、朝になって、またいつも通りに戻ればいい。
そう思うのに。
澪は寝るのが少し怖かった。
理由は単純だった。
最近、同じ夢を見る。
三日連続で。
しかも、妙に鮮明に。
夢なんて、たいてい目覚めたら薄れていくものなのに。
この夢だけは、朝になっても残る。
香りみたいに、肌の内側に残る。
澪は立ち上がって、カーテンを少しだけ開けた。
夜の街は、薄い霧がかかったみたいにぼやけている。
街灯の光が、細い線になって伸びている。
その光を見た瞬間。
夢の中の“糸”を思い出してしまった。
光の糸。
誰かの背中へ伸びていく、細い糸。
触れそうで触れない距離。
息をするたびに、微かに揺れる。
そして。
背中。
見知らぬはずなのに、懐かしい背中。
澪はカーテンを閉めた。
目を閉じると、その背中が浮かんでくるから。
まるで、心が勝手にそこへ帰ろうとするみたいに。
「疲れてるだけだよね」
澪は小さく言った。
自分を落ち着かせるための言葉。
でも、その言葉自体が薄い紙みたいで。
すぐに破れそうだった。
シャワーを浴びようか。
でも今日は、体を動かす元気がない。
澪は部屋の明かりを落として、ベッドへ向かった。
布団に入る。
枕に頬を押しつける。
スマホを伏せたまま、ベッドサイドに置く。
ここ数日、寝る前にスマホを見るのをやめた。
夢が濃くなるのが怖かったから。
目を閉じる。
最初は、仕事の文章が浮かぶ。
見出し。
改行。
言い回し。
編集者の脳は、休むのが下手だ。
でも、呼吸を深くすると。
少しずつ雑音が薄れていく。
薄れていくほど。
別の気配が近づいてくる。
眠りに落ちる直前。
澪の胸のあたりが、ふっと温かくなった。
手を当てたわけでもないのに。
内側から、灯りがともったみたいに。
そこで、夢が始まる。
空が暗い。
夜なのに、星がやけに近い。
風がなくて、音もない。
静かすぎて、逆に心臓の音が大きく聞こえる。
澪は、どこかの坂道に立っている。
足元は草で、湿っている。
遠くに街の灯りが見える。
まるで、現実の夜景の縮図みたいに。
その坂の上に、ひとりの人影がある。
背中。
黒いコート。
肩のラインが、少しだけ硬い。
誰なのか分からない。
でも、澪の体はその背中を知っている気がする。
「待って」
言おうとする。
でも声が出ない。
喉が閉じている。
息だけが白くなる。
すると。
背中から、細い光が伸びてくる。
糸みたいに。
淡い金色。
揺れている。
呼吸に合わせて揺れている。
その糸が、澪の胸へ向かって伸びてくる。
触れた瞬間。
胸の奥が、じんと熱くなる。
涙が出そうになる。
理由が分からないのに。
澪は、糸を掴もうとする。
でも掴めない。
指の間をすり抜ける。
光は柔らかいのに、確かに強い。
まるで「強く掴むな」と言われているみたいに。
背中の人が、少しだけ振り返る。
顔は見えない。
影のまま。
でも口元の輪郭だけが、かすかに分かる。
言葉が出る。
聞こえる。
音というより、心に直接入ってくる。
「…まだ、早い」
その言葉のあと。
背中の人は、また前を向く。
そして歩き出す。
ゆっくり。
迷いなく。
でも、どこか重い。
澪は追いかけたい。
でも足が動かない。
床が粘るみたいに。
膝が固まるみたいに。
そのとき。
澪の胸に、もう一本の糸が増える。
金色の糸の隣に。
薄い青い糸。
冷たいわけじゃない。
静かな色。
夜の深い青みたいな色。
糸が増えると、胸が少し落ち着く。
さっきまでの切なさが。
ほんの少しだけ、安心に変わる。
澪は思う。
これは、何。
誰。
どういう意味。
分からないのに。
分からないまま、涙が頬を伝う。
夢の中でも、涙は温かい。
すると。
背中の人がもう一度だけ振り返る。
今度は、声がはっきりと入る。
「焦らないで」
次の瞬間。
光の糸がふっとほどける。
消えるのではなく、霧に溶けるみたいに薄くなる。
澪の胸の熱だけが残る。
そこで夢は切れる。
澪は目を覚ます。
まだ夜。
時計を見ると、午前3時。
胸が熱い。
心臓が早い。
でも不思議と、怖くない。
怖くないのに。
涙が出ている。
枕が湿っている。
澪は起き上がって、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
現実に戻る。
戻るのに。
夢の言葉だけが残る。
まだ、早い。
焦らないで。
澪は自分に問いかける。
私は何を焦ってる。
誰に追いつこうとしてる。
何を取り戻したいんだろう。
答えは出ない。
出ないけど。
胸の奥が少しだけ柔らかい。
いつもより、固さがほどけている。
そのまま、もう一度眠る。
今度は夢を見ない。
ただ暗い水の中に沈むみたいに、深く眠る。
朝。
カーテンの隙間から光が入る。
スマホがまた震える。
澪は今度は画面を見た。
玲奈からのメッセージだった。
「昨日の夜、元気なかったよね。
今日、昼休みに10分だけ電話しよ」
澪は少し迷って。
でも、返事を打った。
「うん。
10分なら大丈夫。
ありがとう」
送信した瞬間。
胸が軽くなる。
誰かに頼るって、怖い。
でも、頼らないふりをしてきた自分が。
少しだけほどけた気がした。
洗面台で顔を洗う。
鏡の中の自分は、少しだけ目が腫れている。
でも、どこか穏やかだ。
澪は、ふと胸に手を当てた。
夢の中で触れた場所。
そこに、まだ熱が残っている気がした。
「これが、私の本音の入口なのかもしれない」
澪は小さく呟いた。
それが誰に向けた言葉か。
まだ分からない。
でも。
昨日までの“空っぽの頑張り”とは違う。
心の奥が、何かを思い出そうとしている。
思い出すというより。
もう一度、育て直そうとしている。
澪は制服みたいなジャケットを羽織って。
玄関で靴を履いた。
外は少し冷たい。
空は薄い雲。
でも、光はちゃんとある。
澪は駅へ向かいながら。
胸の中で、あの背中をもう一度だけ思い出した。
顔は見えない。
でも、言葉だけが残る。
焦らないで。
澪は頷いた。
誰に見られていなくても。
自分の内側へ、静かに頷いた。
ここから何かが始まる。
それが恋なのか。
ただの心の修復なのか。
まだ名前はない。
でも。
名前がないままでも、始まることはある。
澪は、少しだけ息を深く吸って。
今日の自分の一歩を置いた。
第1話。
静かな違和感。
続く。