以前勤めていた会社に、とても親切な同僚がいた。
なにかと気遣ってくれて、よく話しかけてくれた。
仕事終わりには夕食にも誘ってくれて、一緒にご飯を食べに行くこともあった。
もちろん私にだけではなく、他の同僚たちにも同じように接していた。
とても善い人のように見えた彼だったが、
どういうわけか、いつの間にか少しずつ周りから距離を置かれるようになり、
徐々に私も一緒に話すことが少なくなっていった。
彼が悪い人間だということは、断じてない。
ただ彼の中にある、心のいちばん奥の『やじるし』が、実は相手ではなく自分自身に向かっていたから。
それを皆が感じ取ってしまったため、結果的に一定距離を置かれるようになったのではないかと思う。
要するに彼は「他者を案じ、思いやり、大切にしている」のではなく、
「他者を案じ、思いやり、大切にしている自分でいたくて、そんな自分が好き」な人だった。
周りの人は、彼のその気持ちを満たすために利用されているように感じたのだろう。
その一件から、私は『心のやじるしの向き』について考えた。
表に見えるやじるしではなく、心のいちばん奥にあるやじるし。
これがちゃんと相手に向かっていることが、本当に優しい人で、信頼に値する人。
そう結論づけて、自分はそういう人間でありたいと考えた。
――いや、本当にそうだろうか。
ある時期から、いったんは結論づけたその定義に、私は違和感を覚え始めていた。
古来、『矢』というものは、何かを射るために生み出された。
糧となる鹿や鳥を捕えるため。
争いの時代には敵を射抜くため。
的(まと)を射るため。
あるいは、邪気を払う破魔矢は、射られることはなくても目的は邪気を打ち払うためである。
人は独りでは生きてはいけない。
もちろん私もそうで、これまで本当に数多くの優しい人たちの心に支えられてきた。
そのたびに感じた、包まれるような深い思いやり、背中を押してくれる手の力強さ。
誰かが誰かを、受け入れ、認め、許し、愛してくれること。
そういった美しい営みに深く感謝をするとき、
理屈では私に向けられているはずの『やじるし』という言葉に、私は少し違和感を覚えた。
では『やじるし』でないなら、心は誰かのためにどうあるべきだろう。
きっと人を思う心は、矢のように鋭いものではない。
春の風のように柔らかく、凪いだ湖面のように静かで、大きな木のように力強い。
そんなもののように感じる。
私たちは、お互いの強さも弱さも、美しさも醜さもすべてひっくるめて、
目の前の命を、包み込むような温もりで支え合い、励まし合い、笑い合ってゆくのが良い。
そうした中で育まれた力、あるいは取り戻した力で、
凛と立ち、弓をつがえ、
支えてくれる人たちと共に、見据えた未来へ向けてしっかり矢を向けていくこと。
『やじるし』は、誰かではなくて、手繰り寄せたい世界へ向けていくのが良いのではないか。
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本ブログは、『同じタイトル違うブログ』という企画にお誘いいただき制作しました。
クセで、ブログというよりもエッセイのようになってしまいました…(笑)
私自身、上のブログに自分で書いたように、
「春の風のように柔らかく、凪いだ湖面のように静かで、
大きな木のように力強い。
お互いの強さも弱さも、美しさも醜さもすべてひっくるめて、
目の前の命を、包み込むような温もりで
支え合い、励まし合い、笑い合ってゆく。」
そうあれているかは分かりません(笑)
でも、そうありたいとは思っています。
もしも人間関係で迷っているなら、
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ぜひ一度ご連絡ください☘️
なお、他にも同じタイトルで違ったブログがたくさん掲載されておりますので、
#やじるしの向き
ぜひ他のかたの記事も読んでいただけますと幸いです。