『ココナラ新時代/やじるしの向き』
以前勤めていた会社に、とても親切な同僚がいた。なにかと気遣ってくれて、よく話しかけてくれた。仕事終わりには夕食にも誘ってくれて、一緒にご飯を食べに行くこともあった。もちろん私にだけではなく、他の同僚たちにも同じように接していた。とても善い人のように見えた彼だったが、どういうわけか、いつの間にか少しずつ周りから距離を置かれるようになり、徐々に私も一緒に話すことが少なくなっていった。彼が悪い人間だということは、断じてない。ただ彼の中にある、心のいちばん奥の『やじるし』が、実は相手ではなく自分自身に向かっていたから。それを皆が感じ取ってしまったため、結果的に一定距離を置かれるようになったのではないかと思う。要するに彼は「他者を案じ、思いやり、大切にしている」のではなく、「他者を案じ、思いやり、大切にしている自分でいたくて、そんな自分が好き」な人だった。周りの人は、彼のその気持ちを満たすために利用されているように感じたのだろう。その一件から、私は『心のやじるしの向き』について考えた。表に見えるやじるしではなく、心のいちばん奥にあるやじるし。これがちゃんと相手に向かっていることが、本当に優しい人で、信頼に値する人。そう結論づけて、自分はそういう人間でありたいと考えた。――いや、本当にそうだろうか。ある時期から、いったんは結論づけたその定義に、私は違和感を覚え始めていた。古来、『矢』というものは、何かを射るために生み出された。糧となる鹿や鳥を捕えるため。争いの時代には敵を射抜くため。的(まと)を射るため。あるいは、邪気を払う破魔矢は、射られることはなくても目的は邪気を打ち払うためである。人
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