思い切る

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コラム
おはようございます。


今また動きが起きてきそうです。
動きが起きるごとに勇気がいることもあるけれど
それは自然な動きに対して
この”私の思い”が邪魔しているということで・・・


今回の動きの中でも
その”思い”を切るという機会がたくさんありました。
予想外なども自然に起きてきますし。


思い切るというのは本来は
このように、自然な動きに対して湧いてくる思い
切って動きに委ねていくことのようですね。


思いというのは
思考と同じ。
思いが 湧く だけであって
その内容が思考ということ。


様子のままに
自然のままにというのは
湧きっぱなしで大丈夫だということ。


その思いに入り込んで
今から離れてしまうこともよくあります。
その時も、思い を 切る です^^


この様子が明らかになってくるのは
妄想が止んできたとき
妄想を諦めたときに少しずつ
起きてきました。


以前これもご縁ある方に
”一度すっきり、スピリチュアルやワクワクときめきから離れなさい”
そう伝えられたことがありました。


そのとき、物凄く空虚感が起きたのですね。
今まで学んだこと、信じてきたことまるまるだったので。
自分そのものを捨てないといけないような気持ちに
なったのでした。
私は正解だ!
そう掴んでいたのが少しずつ崩れ去り始めたきっかけでした。


でもね、それらはすべて妄想だったのです。
ぜんぶ、ここにない想像の世界のこと。


目の前に実際現れたときはじめてここに事実として
それは起きたということで・・・


でも、の世界を楽しむということでは
それはそれで良いことで。
の世界も味わっているわけですから、
ここにサラとして存在しているのも
この現れる表現を味わっています。


妄想が止んで
今の事実が見えてくると
ここにない誰かや何かに振り回されることもまたなくなり
ここが静かになるのですね。


ただ、この動きのみがあるということが
明らかになってくるのでした。


明らかになろうが、ならまいが
動きはその様子そのもので
皆がその動きそのものなのですけれどね。


以下、老子さんが仰っていたことのシェアです。


”正受とはその通りにあるということです。
本当に妄想が止みますと、縁の如何を問題にしなくなる。
相手の世界を問題にしなくなる。
相手の世界が問題にならなくなるだけ、
自分自身の真相が明らかになってくる。
そうすると、只、そのことが、そのこと としてあるのみであって
それが私たち、人といわれるものの実体である。”






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