——風が止んだ。
その瞬間、彼女はなぜか、制御できない感情に震えた。
ただ、何かがそっと外れたような、不思議な静けさが、胸の奥を満たしたのだ。
心結(ココ)は言った。
「これより、瀬織津姫の御神事を執り行います。
あなたの魂にこびりついた“燃えカス”——
オリのように沈殿した想念の影を、姫の清流に還しましょう」
—
その夜、彼女は言われたとおりに、湯を張った浴槽に粗塩をひとつまみ。
部屋の灯りを落とし、静かに横たわった。
そして、言われた時刻。
——23時23分。
遠くで、水音が聞こえた気がした。
それは、川ではなかった。
魂の奥に流れていた、見えない川のせせらぎだった。
しん、とした空間に、ふわりと浮かびあがる白い姿。
流れる髪、薄く透き通る衣。
瀬織津姫が、そこにいた。
「あなたの中に、流れぬ水がある」
「それは、かつてあなたが他者の影を映し続け、
自分の“火”でそれを照らしてしまったゆえの宿命」
姫の言葉は、水のように静かで、痛みのように正確だった。
「でも、あなたはそれを“業”だとは思っていなかった。
ただ、がんばっただけ。
ただ、まっすぐだっただけ。
……だからこそ、“報われなかった理由”がわからなかった」
—
姫の掌から、水が溢れた。
その水は、言葉にならない痛みをひとつずつ、拾い上げていった。
「できるから任された」
「誰もフォローしてくれなかった」
「陰で文句を言われた」
「笑われた」
「気づかぬうちに、利用されていた」
それらが、黒いしずくになって、水底に沈んでいった。
—
けれど——
最後に、姫が掬い上げたものは、
彼女の過去生からの“誓い”だった。
それは、「他者を照らし、導き続ける」という
かつて彼女が望んだ“光の役割”。
けれど、それが“使命”に変わるとき、
本人が置き去りになってしまうこともある。
「あなたは、もう“誰かのためだけに生きる”必要はないのです」
—
その言葉とともに、凪様が現れた。
水の中からそっと現れた凪様は、彼女の周りをくるくると飛んだ
可愛らしい龍の化身
「あなたが“あなたの人生”に帰るときがきました」
「いままでは、誰かの人生の中で生きていたのかもしれない。
でも、もう大丈夫。
世界は、あなたを待っていますよ」
—
その夜、彼女は夢を見た。
焦げた空、燃える草原。
その中を、自分が歩いていた。
でも、凪様がそっと手を握ると、
炎が風になり、草原は揺れる緑の大地へと変わった。
風が吹いた。
そして——目が覚めた。
—
【浄化のあとの朝】
空は、まるで洗われたようだった。
出勤の道すがら、誰かの笑顔に素直に笑い返せた。
「ありがとう」が、喉をつまらせることなく、すっと出た。
なにもかもが、奇跡のように——
でも、どこか“自然”だった。
—
【再生の祈り】
「瀬織津姫は、過去を清め、
凪様は、未来へ導く」
「あなたという舟は、ようやく錨を外し、
自分だけの航路へと漕ぎ出したのです」
「もう、光を怖れなくていい。
だってあなたの光は、誰かを焼くためじゃない。
世界を照らすためのものなのだから」