(2)天動説から地動説への「コペルニクス的転回」:神学・哲学・科学
②「スコラ神学」と「ヒューマニズム」を脱却したコペルニクスの「地動説」
「スコラ神学」~神は2つの書物を書いたと考え、1つは「聖書」、1つは「自然」であるとしました。自然の中に神の合理性を読み取っていく行為と、聖書を読んで、そこに神の意志や計画を学ぶ行為とは結局同じものであり、宇宙の秘密を解き明かすことは聖書を読むのと同じだけの重要さを持つようになったのです。
「自由七科」~「三学」(「聖書」に関する基礎知識=文法・論理・修辞学)、「四科」(「自然」に関する学問=天文学・算術・幾何学・音楽)→「教養」の中心。
「ヒューマニズム」~「人文主義」「人間中心主義」(「人道主義」はhumanitarianism)→「現実主義」「自然主義」
「近代科学」~中世神学(神本主義、教会中心主義)→近世哲学(人本主義、人間中心主義)→近代科学(物本主義、物質中心主義)
「地動説」~古くアリストテレスの時代から16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、周りの天体が動いているという「天動説」が信じられてきました。もちろん、コペルニクス以前にも地球が動いていると考えた者はおり、例えばピロラオスは宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めて全ての天体がその周りを公転すると考えました。アリスタルコスは地球は自転していて、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという、コペルニクスに近い説を唱えました。プラトンも善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていました。広い意味ではこれらも「地動説」(太陽中心説)に入りますが、これらのどれでもなく、コペルニクスが「地動説」(太陽中心説)の創始者とされるのには理由があるのです。
まず第1には、コペルニクス以前の「地動説論者」が明確な軌道計算をしなかったこと、つまり、その説に従って未来や過去の惑星の位置を正確に予言できなかったことがあります。第2に、地球が動くのなら、鳥や雲が何故取り残されないのか、誰も地球を押していないのに、どうして止まらずに動き続けられるのか、というような多くの疑問に答えることができなかったことがあります。地球が動いているという明確な証拠を見つけ、他者を説得できない限り、現在の科学体系の上では説を立てたとはなかなか認められません。
こうした理由で16世紀に至るまでずっと、2世紀のプトレマイオスが体系化した「天動説」が支持されてきました。プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだのです。もちろん、「天動説」は当時からおかしな所はかなり多く含んでいました。例えば、5つの惑星の全ての軌道計算に必ず「1年」という単位が出てくること、惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭であること、などがあり、惑星の位置予報にも誤差がありました。しかし、さらにそれらの説明までし尽くし、精密な惑星の位置予報のできる新説はなかなか現れなかったのです。
「天動説」の体系の様々なほころびが明確化するのは大航海時代です。この時代、航海術が大きく変わりましたた。それまでの航海は沿岸航海で、陸地の見える場所しか船を運航しませんでした。したがって、何も目印のない大海原では行き先が分からず、航海もできなかったのです。やがて、羅針盤がそれを可能にし、磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになりました。しかし、当時の星表には問題がかなりあり、特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあったのです。
さらにもう1つの問題が生じつつあり、1年の長さが当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのです。この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていました。キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になっており、10日もずれているのは問題がありました。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていましたが、1年の正確な長さが分からず、300年間放置されていたのです。当時使われていた「1年」(回帰年)の定義は、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらないものですが、「分点」または「至点」(春分、秋分、冬至、夏至のいずれか)から次の同じ「分点」または「至点」までの時間です。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオス体系では、「1年」という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、「1年」の値を決定する方法がありませんでした。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになったのです。
カトリックの司祭であったコペルニクスにとって、正確でない「1年」の長さが使われ続けることは重大な問題でしたが、それは主に宗教的な理由からでした。コペルニクスは「地動説」を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたとも言われています。コペルニクスはアリスタルコスの説を参考にして太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出しました。ここで1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによります。1543年、その測定方法や計算方法を全て記した著書『天体の回転について』を刊行したのですが、誰でも同じ方法で「1年」の長さや各惑星の公転半径を測定し直せるようにしたことが、コペルニクスを「地動説」の創始者とする理由なのです。
この後、ローマ教皇グレゴリオ13世によって1582年にグレゴリオ暦が作成されますが、改暦の理論にはコペルニクスの「地動説」は利用されていません(ただし、プトレマイオスの「天動説」も使われていません)。しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされています。ちなみにコペルニクスの月の運行理論は、アラビアとは独立に再発見したという説もあります。
コペルニクスの「地動説」は、単に「天動説」の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではありません。「地動説」では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定しています。また、全惑星(地球を含む)の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっています。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定されるのです(実際の距離は、この時代にはまだ分からないのですが)。同様に、地球と各惑星の距離も算出できます。これがプトレマイオスの「天動説」との大きな違いであり、プトレマイオスの「天動説」ではどんな形でも惑星間の距離を測定することは出来なかったのです。また、「地動説」では各惑星の公転半径、公転周期は全惑星の値がそれぞれの値と関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系が全て崩れてしまいます。これもプトレマイオスの「天動説」にはない大きな特徴であり、一部分でもわずかな変更を認めない体系が出来上がったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多いのです。
コペルニクスの「地動説」では、惑星は太陽を中心とする円軌道上を公転し、惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順です(この時代、天王星や小惑星はまだ発見されていません)。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっています。ただし、実際には単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きの説明がつかず、コペルニクスの著書では、プトレマイオス説でも使われていた離心円が運動の説明に使われました。天動説では、月や惑星の運動の不規則性を説明するため、それらの円軌道の中心は地球中心から少し離れたところにあると考えました。この円を離心円と言い、ヒッパルコスが惑星の運動の説明に用い、プトレマイオスの宇宙体系にも採用されたのです。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためですが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはありませんでした(実際にはコペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難でした)。
コペルニクスの時代、「天動説」で説明し切れないような天文現象はほとんど存在しませんでした(ときおり観測された彗星を除きます)。現代科学では主に説明のしきれない現象を説明するために新たに学説が登場するのですが、コペルニクスの説の登場の仕方は明らかにその後の科学体系の構築の手順とは異なっているのです。
【参考文献】
『コペルニクス革命 科学思想史序説』(トーマス・クーン、講談社学術文庫)
『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』(渡辺正雄、講談社BLUE BACKS)
『近代科学を超えて』(村上陽一郎、講談社学術文庫)
『世界文学大6 ダンテ』(野上素一訳、筑摩書房)
『ダンテ神曲物語』(野上素一訳著、現代教養文庫)
『キリスト教思想史入門』(金子晴勇、日本基督教団出版局)