③「抽象化」「普遍化」が世界化する
「合理性」は「抽象化」に向かう~「合理性」の追求は個別状況や人間関係などを捨象していきます。「近代科学」は、例えば三角形は線の太さを考えない、物体の落下でも空気摩擦を考えないなど、「抽象化の論理」によって急激に発達しました。
「論理と数学との合体は、古代ギリシャにおいて実現される。これこそ実に、世界史における画期的大事件であり、数学の無限の発達を保証するものであった。
資本主義とともに発達を遂げることになる近代数学の神髄は論理と一体化したことにあった。実はこのことはギリシャ数学に端を発する特徴であって、他の高度文明諸社会にも見られる現象ではない。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)
「中国の数学は実用性と密着したものであった。……ギリシャのユークリッド幾何学に見られるような論証性は、中国の数学には欠如していた。」(薮内清『中国の数学』)
「「本来の論理」という言葉を使った。そして、数学が「本来の論理」のみを使用した学問に成長したことは画期的であり、このことが数学の偉大な発達をもたらし、近代科学に基礎を与えたとも述べた。では、「本来の論理」とは何か。それは、アリストテレス(Aristotle 前三八四~前三二二)の形式論理学(formal logic)である。
この体系はギリシャ、ヘレニズム世界、ローマ帝国、サラセン帝国、中世ヨーロッパなどにおいて論理学の模範、いや論理学そのものとみなされ近代に及ぶ。
一九世紀末、形式論理学は、記号論理学(symbolic logic)、すなわち数学的論理学(mathematical logic)に発展した。
形式論理学は、また、形而上学の一種として、マルクスから弁証法をもって批判された。しかも、アリストテレスの形式論理学は曠古(こうこ、空前)の完成度を見せるものであって、中国の論理学といえども比べものにならない。
曖昧模糊(あいまいもこ)たるところを残さず、この論理学を用いれば、真偽の判定が一義的にできるところに未曾有(みぞう)の強味を有する。この点において、中国の論理学とも比較にならない。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)
「現在の経済学は数学と結合した(あるいは比喩的に数学と結婚した)が、それが可能になったのは、物理学が数学と結合したのを同じ理由によるのです。すなわち、物理学の諸変数(変位、速度、加速度など)は抽象性を獲得した、ということである。古代ヘレニズムにおいて、幾何学が数学(形式論理学)と結合した。幾何学の諸図形(点、直線、円、それらが作る諸図形)が抽象性を獲得したからである。
直線とは、太さ(幅)が全くなくて長さだけがある図形である。こんな図形は抽象の産物であって、実在し得るものでないことは言うまでもない。点に至っては、その在り場所だけがあって大きさは全くない!抽象の産物のみによって作られるユークリッド幾何学の諸図形は、もちろん、抽象の産物にすぎない。これらの抽象の産物にすぎない諸図形と形式論理学とから、ユークリッドは壮大な幾何学原論を作り上げたのです。
物理学が高度の抽象性を獲得したことを理解するための恰好の例は、質点(mass point)である。質点とは、大きさが全くなくて、質量を有する点のことであるとされる。質点が実在しないことは明白である。もし実在したとすれば、質点の比重は無限大となる。こんな物質が実在するわけがないではないか。しかも、ニュートン力学は質点の力学から始まる。一質点のみが実在して、その他のものは何も存在しない模型から議論を始めるから、模型構築法(model building)に少しも関心のない人にはナンセンスに見えるのです。
しかし、物理学は、抽象的な模型構築法を活用したので、数学の全面的使用が可能となり急速な発達を遂げることができました。諸学問の手本となり、自然科学の多くと、いくらかの社会科学は物理学にならって長足の進歩を遂げたのです。
社会科学で、抽象的な模型構築法を活用し、数学の全面的使用が可能となり、長足の進歩を遂げたのは経済学なのです。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)
「抽象化」は「普遍化」「一般化」に向かう~「目的合理性」は「形式合理性」に至り、より普遍的・一般的になります。例えば、数学記号や音楽の楽譜は世界のどこでも共通認識できるわけです。かくして、数学ではユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学が生まれ、物理学ではニュートンの古典力学からアインシュタインの相対性理論やボーア以降の量子力学が生まれてきて、より普遍的・一般的になったわけです。社会諸科学の中では経済学が理論で、心理学が実験で、より普遍的・一般的な科学となりました。元々は経済学も心理学も哲学の一部だったのです。
「ロバチェフスキー(Nicolai Ivanovich Lobachevskii 非ユークリッド幾何学の創始者。一七九二~一八五六年)の業績は、数学革命としか言いようがない。いや、まさしく、科学革命と呼ぶのにふさわしい一大革命であった。ロバチェフスキーこそ、数学の、いや科学のコペルニクスと呼ぶべきか。数学・科学の研究法が一変したのであった。
この数学革命・科学革命が近代資本主義・近代デモクラシーを生むことになった。
数学も科学も、それまでは、客観的に存在する真理を学者が発見するという立場で研究されてきていた。ユークリッドの幾何学原論が模範であり、自明(self-evident)な公理から、形式論理学だけを用いて定理を導き出す方法が学問の理想であると看做(みな)されてきていた。
その公理からの論理演繹(えんえき)法は、あまりにも見事であったので、学者は誰でも、これこそ完全な理論であるとして完全理論(complete theory)と呼んだ。
しかし、ロバチェスキーは、このイデオロギー(確固たる学問教と呼んでもいい!)に、真っ向から挑戦して、このイデオロギーを転覆させたのであった。
ロバチェフスキーが、背理法を用いて非ユークリッド幾何学を建設して以来、自明の真理であると看做されてきた公理(the axiom)は、仮定(a hypothesis)にすぎなくなった。
学者の任務は、真理の発見ではなく、仮定を要請する(postulate)ことになった。
つまり、ロバチェフスキー革命によって、数学者、科学者は、真理発見者を辞めて、模型構築者(model builder モデル・ビルダー)に変身したのであった。
伝統主義(traditionalismus, traditionalism)は、一気に打倒されて、近代資本主義、近代デモクラシーへの道は開かれた。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)
「長い鎖国の末に欧米資本主義国(主として、ドイツとフランス)の法典を真似て基礎的法典(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)を作って近代国家として発足した日本は、近代資本主義国家の法律の論理の緻密(ちみつ)さに驚いた。近代資本主義国の法律は、論理としてアリストテレスの形式論理学を用いているのである。西洋諸国の法律も、はじめから形式論理学を用いていたわけではなかったが、近代資本主義に至って法律の論理が形式論理学(formal logic)に進化していったのである。
形式論理学に依れば、判決(判断の一種である)は、勝つか負けるか(刑事判決ならば、検事が勝つ〔有罪〕か負けるか〔無罪〕か)のいずれしかない。勝つと同時に空けるということもなければ(矛盾律)、勝つと負けるの中間もなければ、勝つ、負ける以外の判決もない(排中律)のである。
最後に繰り返しておこう。形式論理学とは、以下の三つが極意である。
同一律 AはAである。
矛盾律 AはBである。AはBでない。
これら二つの命題が成立することはできない。ともに成立しないこともできない
排中律 矛盾の中間はない」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)
「普遍化」は「教科書化」によって社会的再生産の軌道に乗る~数学を初めとする自然科学は「標準教科書」によって社会的に定着し、人類共通の認識・財産として次世代に引き継がれていきます。
例えば、数学では初等数学(算数)から高等数学まで(少なくとも中学・高校の数学まで)、誰でも体系的に学べるのは標準的な「教科書」が確立されているからで、もしも17、18歳の高校生がタイムマシンで500年前の世界に行ったとしたら、「微分・積分」を使いこなすのを見て、誰もが「天才」扱いされることでしょう。無限や極限の概念を使い、曲線で囲まれた図形の面積を導出するなど、それこそライプニッツやニュートンといった天才達が一生かかって編み出した知識体系なのであって、それを現代の高校生はたった1時間でも学んでしまうのです。
社会科学の中でこれに成功したのは、数学を本格的に導入した経済学のみであり、「標準教科書」の嚆矢は古典派経済学とケインズ経済学を統合して「新古典派総合」を打ち立てたポール・サミュエルソンの『経済学』です。ここに教育による社会的再生産が確立するわけです。
ちなみにイギリスの法廷では、裁判官はプラチナブロンドのかつらをかぶることで有名ですが、イギリス法系にあるフィジーやスリランカでも同様にかつらをかぶっています。すなわち、ここでもイギリス法教育がイギリス法圏に「慣習」を教育・再生産しているわけです。
「一つの学問領域が「科学」として社会の認知を受け、研究の裾野を広げるには、その領域における理論の基礎と分析の手法を体系的に編んだテキストが不可欠である。先人達が生み出した理論の一つ一つ、そこで戦わされた議論の数々。その本質と真価を見極め、根幹と枝葉とに再構成し、大樹の輪郭を入門者にも分かり易く提示する――。これは新しい理論を生み出す事にも匹敵する(否、それ以上の)難業と言っても過言ではない。
その難業を、経済学の分野で成し遂げたのが天才サムエルソンである。サムエルソン博士が『経済学』の初版を上梓したのは一九四八年。経済学は二〇〇年以上の歴史を持つが、入門者が体系的なテキストで学べるようになったのは、実はここ半世紀の事なのである。」(小室直樹『経済思想ゼミナール 経済学をめぐる巨匠たち』)
「私の学説がもし分かり難いと言う人がいれば、サムエルソン博士の『経済学』を一読する事を勧める。私の説を私以上に良く理解している人がいるとすれば、それはサムエルソン博士である。」(ケインズ主義を激しく批判したフリードマン)
「自分が経済学のテキストを書くことができさえすれば、国家の法律や進歩的な条約の文章を誰が書こうがかまわない。」(ポール・サミュエルソン)
参考文献:
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(小室直樹、東洋経済新報社)
『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)
『経済思想ゼミナール 経済学をめぐる巨匠たち』(小室直樹、ダイヤモンド社)
『中国の数学』(薮内清、岩波新書)
『日本の司法文化』(佐々木知子、文藝春秋)
『マンキュー経済学Ⅰミクロ編』(N・グレゴリー・マンキュー、東洋経済新報社)