「近代の論理~社会科学のエッセンス~⑧」 (3)「近代精神」の根幹にある「合理主義」

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②「伝統主義」を打破した「合理主義」の精神

中世の戦争(「正義の戦争」)は「感情の戦争」~中世までのヨーロッパでは、「いい戦争」と「悪い戦争」の2種類があると考えられていました。「いい戦争」とは正義を実現するための戦争で、「悪い戦争」とは不正義を実現しようとする戦争なので、戦争目的に「大義名分」があるかどうかが重要でした。このため、憎むべき相手と徹底的に戦わなければならず、相手を叩きつぶした時に戦争目的が達成されたと考えました。その結果、どんなに自国の損害が大きかろうと関係ないというわけです。これが最悪の形で行なわれたのが宗教戦争であり、三十年戦争の舞台となったドイツでは、地域によっては人口が半減したとされます。

近代の戦争は「合理的精神」に基づいて行なわれる一種の経済活動~近代においては、「いい戦争」「悪い戦争」といった区別はなくなり、戦争をリアリズムで考えるようになりました。すなわち、国益を追求するために通常の外交手段を駆使しても達成されない場合、そこで出てくるのが戦争だという考えがプロイセンの士官だったクラウゼヴィッツによって示されました。彼の死後、公刊された『戦争論』は「近代戦争のバイブル」として世界中の将校のみならず、エンゲルスやレーニンまで思想的な影響を与えました。
「戦争は他の手段による政治の継続である。」(クラウゼヴィッツ『戦争論』)

古代イスラエル人は「宗教の合理化」を行なった~「合理化」という点でマックス・ヴェーバーが注目するのが、古代ユダヤ教を創設した古代イスラエル人です。彼らは「苦難をも与える神」「目に見えない神」を崇拝し、信仰を合理化して、「呪術からの脱却」を図りました。

「ちなみに、イスラエル人がユダヤ人になったのは、このバビロン捕囚からです。
 バビロニアの奴隷になったイスラエルの人たちは、「なぜ自分たちは、こんな目に遭っているのだろうか」と考えた。そして過去の歴史を振り返ってみたら、自分たちが神様との契約を無視したからだということに気付いた。
 そこで彼らは過去の失敗の歴史を旧約聖書という形に集約し、今後は神と結んだ契約、いわゆる「律法」をきちんと守ろうと考えた。そうすれば、神様はもう1度、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださるのではないかというわけです。
 実は、これこそがユダヤ教の原点です。
 ユダヤ教は古代イスラエル人の信仰をベースにしていますが、、それだけではありません。神との契約を無視した苦い教訓があって初めて、あの強固なユダヤ教の信仰が生まれた。
 同様に、古代イスラエル人が、そのままユダヤ人になったのでもありません。
 バビロン捕囚という体験によって、古代イスラエル人は、ユダヤ人へと変身した。マック・ウェーバー流に言えば、民族全体のエートスがバビロン捕囚によって変換したというわけです。
 エートスが変わったユダヤ人は、かつてのイスラエルの民とは見違えるほどになりました。
 古代イスラエルの人々は、不信心でグータラで、すぐに昔のことを忘れてしまう連中でした。
 しかし、ユダヤ人は違います。彼らはどの土地に住もうとも、信仰を捨てずに生きつづける。そして、つねに神との契約に基づいて、自分の生活を律していく。ユダヤ人がそんな民族になったのは、バビロン捕囚という苦い体験があったからです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「一神教」の神との「契約」は「形式論理学」そのもの~興味深いことですが、古代ユダヤ教の特徴である「契約」は「形式論理学」で説明されます。「形式論理学」はアリストテレスが完成させ、「近代数学」もこれを引き継いだものですが、これは「同一律」「矛盾律」「排中律」の3つの根本原則から成ります。
(1)同一律(the law of identity)
「AはAである。」と表現されます。「契約」においては、その内容は文書で明示されなければならないということになります。
(2)矛盾律(the law of contradiction)
「AはBである」「AはBでない」という2つの命題がある時、両方とも真であることはなく、両方とも偽であることもないということです。「契約」においては、それを守ったか、守らなかったかが「一義的」に決まるということになります。
(3)排中律(the law of excluded middles)
 「AはBである」「AはBでない(Aは非Bである)」の2つの命題がある時、必ず一方だけが成立し、他方は成立しない(ここまでは「矛盾律」)が、この2つ以外にないということです。「契約」においては、それを守ったとも言えるし、守らなかったとも言えるというような中間状態は認められず、守ったか、守らなかったかは「二分法」的に分けられるということです。

「一貫した体系的論理を誕生させ、これと結びついたこと。これこそ、数学が諸科学の王となり、これを制御し、その下に発展させた理由である。
 しかし、その体系的論理が、人の世界観、人生観の中枢として、人のエトス(ethos)となるためには、宗教において合理性を獲得しなければならない。不合理な点を払拭しなければならない。
 宗教の合理化とともに進まなければならないのである。魔術や呪術や儀礼にまとわりつかれているというのではなく、論理がそれらから脱却して純粋に作用しているようになっていなければならないのである。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)  

プロテスタントも「宗教の合理化」を行なった~マックス・ヴェーバーによれば、古代ユダヤ教同様、プロテスタントも「宗教の合理化」を行なったとされます。プロテスタントが登場するまで、中世カトリックは聖書にない「秘蹟」(洗礼・堅信・回心・聖餐・叙階・婚姻・終油)を定め、「救済財」の概念や「マリア信仰」、「煉獄」思想などを生み出し、「呪術の花園」と化していたのでした。

ヴェーバーの逆説~一般的に、ヨーロッパに「近代資本主義」が生れたのはキリスト教離れのおかげだと信じられてきたのですが、マックス・ヴェーバーは「事実はそれと逆で、宗教改革によって世の中が徹底的にキリスト教的になったからこそ、ヨーロッパは近代の扉を開けることが出来た」と主張したのです。すなわち、プロテスタントは中世のキリスト教から呪術的要素を徹底的に追放し、キリスト教に「合理性」を取り戻したのですが、この「合理性」の追求がそのまま「資本主義の精神」へとつながっていくと考えました。実際、「近代資本主義」は「合理的経営」なくして成り立ちません。

「マクス・ヴェーバーは、近代資本主義を生むのは目的合理性(Zweckrationalität)の論理であると言った。目的合理性の神髄は形式合理性である。形式合理性とは、数学のように計算ができること(Rechenbarkeit)を言う。
 数学、特に計算ができることが近代資本主義を生んだとも言えよう。
 ヴェーバーは、計算可能の例として、複式簿記(double entry accounting)、近代法、資本主義市場、物理学を代表とする近代科学を挙げている。
 いずれも近代資本主義の所産であり、数学の論理が縦横に活躍している。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

キリスト教における2段階の「エートスの変換」~マックス・ヴェーバーによれば、「エートス」とは「行動様式とそれを背後で支える心的態度」のことです。「近代資本主義」が誕生するためには、まず「プロテスタンティズムの倫理」から予定説に基づき、「労働は救済の手段であり、隣人愛の実践である」という労働観の転換が起きます。さらに「利潤最大化」のために「目的合理性」が生まれ、伝統主義から完全に脱却して「資本主義の精神」が確立されるといった、2段階の「エートスの変換」が必要だったとされます。

「当時の社会は伝統主義が支配する社会です。「永遠の昨日」という言葉が示すように、社会の仕組みや決まりを人間の都合で変えてはならないというのが伝統主義です。
 ところが予定説を信じると、その伝統主義もまた色あせて見える。
 なぜなら、神の絶対を信じているプロテスタントからすれば、「昨日まで、そうやって来たから」という理由では納得できない。彼らにとって何より大事なのは、それが神の御心に沿っているかどうかだけです。だから、神様のためなら社会の仕組みなんてぶち壊して、作り替えてもかまわない。
――つまり革命だ。
 そう!近代の歴史は革命の歴史と言ってもいいわけですが、その革命もまた予定説の産物だった。
 神のためなら、社会をひっくり返してもいい……この考えがそのままフランス革命、ひいてはロシア革命につながるのです。
 革命の概念にしても、平等の概念にしても、予定説がなければ作られないものです。カルヴァン以前には、まったく誰の頭にもなかった。ここが近代民主主義の本質を理解するうえで、絶対に忘れてはならないポイントです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)
「カルヴァン主義の信者になれば、紛れもなくエートスが変わる。
 予定説を信じれば、まず労働に対する見方が変わる。つまり、内面に変化が起きる。そして、それにともなって外面的行動も勤勉で質素な生活を送るようになる。
 また民主主義との関連でいえば、内面的には人間に対する見方が変わる。
――人間は平等であると思うわけですね。
 そして外面的には王様の首をちょんぎって、革命を起こすようにもなる。エートスの変化が起きるわけです。
 ウェーバーが言っている「資本主義の精神」というのも、要するにこうしたエートスのことです。
 いくら*1陶朱や*2紀伊国屋文左衛門のような豪商がいて、*3前期的資本が作られたとしても、資本主義は生まれない。
 カネが資本主義を作るのではなく、エートスの変換こそが資本主義を作る。これがウェーバーの言いたかったことです。
 その資本主義のエートス変換の媒体、触媒になったのが、かの予定説なのです。
 まず予定説によって、人々の間に「労働は救済の手段であり、隣人愛の実践である」という考えが生まれた。そして、外面的には毎日毎日、働くようになり、利潤を追求するにようになる。キリスト教徒のエートスがプロテスタントの登場で、まず変化した。これが資本主義誕生の第1段階です。
 しかし、これだけではまだ資本主義とは言えない。
 働くことが救済であるとは、日本の二宮尊徳も言ったこと。しかし、二宮尊徳だけでは資本主義は出てこない。
 資本主義が出てくるには、さらに第2段階のエートス変化が必要である。こうウェーバーは考えました。
 そのエートスを一言で表わすとすれば、目的合理性です。
 つまり、ただがむしゃらに働くのではなく、利潤を最大にするという目的を達成するために、何をすべきかを合理的に考えるという精神が生まれた。これこそが資本主義の精神の真髄と言っても差し支えありません。
 伝統主義に縛られていたら、利潤を最大化することはできません。刃物を鍛冶屋が昔ながらの方法で手作りしているのでは、どうしても生産量は限定され、利益の上限も決まってきます。しかし、同じ品質の刃物が作れるのであれば、設備投資を行なって機械を導入し、大量生産したほうが儲けが大きくなる。こう考えるのが、初歩の目的合理性です。
 しかし、さらに目的合理性を突き詰めて考えていけば、要するに目的は利潤を最大化することになるのだから、先祖代々の商売をしている必要すらない。もっと儲かる仕事があれば、さっさと転業するほうがいい。こう考える人たちがどんどん現われてきた。
――なるほど、そこで産業革命が起こって、新しい産業が続々と生まれてくるわけですね。
 さらに利潤最大化という目的を達成するには、日常の経営そのものもまた合理的でなければなりません。
 そこで従来の大福帳方式から、複式簿記という近代的な簿記システムが生まれてきます。要するに勘と経験で仕事をするのではなく、もっと数学的、客観的に事業を把握しようという動きが出てきたわけです。
 こうして、私たちが知っている近代資本主義がどんどん育ってくる。その資本主義のエートスも、プロテスタンティズム、つまり予定説という媒体、触媒があって誕生したものだというのが、ウェーバーの主張なのです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)
*1陶朱…春秋時代の越王勾践(こうせん)の下で首相となり、呉王を倒した後に職を辞して商人となった范蠡(はんれい)のこと。経済法則の奥義をつかんで大いに利益を上げ、金持ちの代名詞となりました。
*2紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)…元禄時代の豪商で、木材取引で巨万の富を築き上げ、伝説に残るような豪遊をしました。
*3前期的資本…大塚久雄によって指摘された概念で、単純な商品流通と貨幣流通の発生に伴って資本主義以前の諸社会に現れた古い資本形態。利子生み資本の古い形態である高利貸資本と商業資本の古い形態である商人資本を指します。

参考文献:
『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)
『概説西洋哲学史』(峰島旭雄編著、ミネルヴァ書房)
『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)
『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(小室直樹、東洋経済新報社)
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