タイトル画を雪山にしてみましたが、今回はちょっと厳しい話です。
ずっと地上波やYouTubeで気になっていたこのサービスを始めて、およそ1ヶ月。得意の映像スキルとノウハウをもとに、あわよくば活動範囲を広げたい、と目論んでいましたが、まだまだ売り上げは伸びませんねえ。
まあそれはいいとして。
最初登録するときに自分の肩書きで「映像ディレクター」にするのか「動画ディレクター」のほうがいいのか、ちょっと迷ったんですよ。最近は「動画」のほうがよく見聞きするし若い人にも馴染みがあるのかなと思って、日和って「動画ディレクター」でスタートしたんですけど、結局「映像ディレクター」にしてしまいました。というのも「映像」と「動画」って、突き詰めるとちょっとニュアンスが違うよな、と思ったんです。
「映像」と「動画」。個人的なニュアンスの違い
まず僕個人の感覚としては「映像」のほうが昔からあって、その文字の成り立ちから見てわかるとおり「映る像」。実際に存在する被写体をカメラで撮って、その動きを見せるもの、という感覚が根底にあると思っています。撮影現場があって、そこで生まれた空気をどう画面に封じ込めるか、という作業。
一方「動画」は比較的新しいことばで「動く画」。CGやモーショングラフィックスなどを使って、実在はしないけれど画面上に生成・描画したものを動かすことも含めている気がするんです。画面の上だけで生まれた、澄んだ世界。
いや、もちろんだいぶ語弊はあると思いますよ。過渡期にはアニメも映像と呼んでいたし、たぶん今もそう呼んで誤りではないでしょう。ただクリエイターたちの間でそういう目に見えない区分がうっすらと線引きされているように思ったんです。
だから自分は「映像ディレクター」だと思った。
その勝手な解釈でいくとやっぱり自分が作っているのは「映像」だなと思ってしまったんです。企画立案があって、撮影スタッフと出演者を呼んで、せえので一丸となって空気感を作る。スマホで動画が見られるようになるよりずっと前から憧れていて、飛び込んだ世界。
どっちがいいとか優れているとかじゃないんです。自分はそういう昔のタイプだなと思ったので、結局肩書きは映像ディレクターに戻しました、という話です。まあ皆さんからしたら心底どうでもいい、「ていうかお前誰やねん」案件でしょうけれど。
で、そんなふうに二大勢力が生まれている昨今、映像・動画業界っていうのはすごくハードルが下がって、今は手元に誰でも持っているスマホで映像が撮れてしまう、動画が作れてしまう、という時代になりました。デジタルネイティブなんてことばもありますが、それでいうと動画ネイティブの時代です。登山ブームに例えると、誰もが映像・動画山脈に向かう登山道へ向かい、名声と一攫千金(?)を狙っています。大渋滞です。
山頂へ列をなす初心者クライマーたちの悲鳴。
今、その山裾でこんな声が聞こえてきているような気がします、「思ったより地味できつい」「簡単に考えすぎてた」。皆、街で着るオシャレ着のまま、スニーカーやサンダルのまま富士山の五合目に来てしまいました。山をナメていた、という状況です。
それはもちろん、文字通り編集作業が地味で時間のかかるものだと知らなかった、というところも大きいんでしょうけれども、そもそもその編集スタイルで合っているか、というところから疑問に思う人はどれだけいるんでしょうか?
数日間セミナーを受ければ動画編集者として食っていける、みたいな塾を散見しますが、それを受講したとしてもただ編集ソフトという登山器具の扱い方を身につけただけで、近所の低山にも登っていない状況です。これが厄介なんだと思います。最新の登山器具を身につければルートの策定もスケジュールの調整も要らないか? そんなことないですよね。
今は本当に映像・動画の参入ハードルが下がりました。画面の中で話を進行してくれる出演者に恵まれなくてもOK。一例を挙げればゆっくり解説動画をマスターするか、Vtuberとしての人格をこさえれば、皆が自分の映像・動画を観てくれる、というお膳立てが整っています。
でもそれは実のところ、ただでさえ地味で時間のかかる編集という作業にさらに負荷をかけてしまっているんです。それはそうです、生身の人間がカメラ前でしゃべった方がよっぽど手っ取り早いはずなんですから。何もないところから声や顔をいちいち作って面白いものに仕上げるのは、あえて整地された登山道を避けてアイスクライミングに挑むみたいな行為です。一メートル進むのもひと仕事です(そのうちもっと簡単になるんでしょうけれども)。
でも、自分が遠回りをしていることも、無駄に労力を費やしていることも気づかずに取り組む。よしんば出演者を立てたとして、台本作成や現場の演出はほぼなく、撮ってきたものをただ一生懸命「フルテロップ」で、テロップの出し方・色・SE、全部盛りで作ることにこだわる。
その結果、徒労感だけが募ってどんどん疲弊する。遭難一歩手前です。一部の体力も気力もめっちゃくちゃある人だけがどうにか踏破できるルートを初手で選んでいるからです。
そして引き返す勇気もなく……。
その作業の大変さに根を上げて編集作業だけココナラなんかでアウトソーシングしようとしている人がかなりいる感じがします。コメントフォローのテロップだけでいいから冒頭から最後まで全部入れてくれ、と。これがさらに厄介です。電通みたいな中抜きシステムだから、子請け孫請けのところには一本15分フルテロップ1000円とかありえない値段で降りてくる。時給計算でナンボになるんだって話です。そんな低賃金でも受けるクリエイターのたまごたちにできることはもう、テロップを黙々と指示されるままに入れるだけ。そこに創造性のかけらもない。
まあそういう話すこと全部文字入れろ、みたいな悪しき風習は家庭で家事のノイズに声が紛れても内容がわかるように、という「チャンネルをいかに変えさせないか」を主眼とする地上波に端を発するわけですけれども、そのカタチだけ盲目的にマネていればそれっぽい映像になるという固定観念が皆に深く根ざしているみたいなんですね。もうテロップのないカットは何もしていないみたいで不安になる、というところまで来ている気がします。
(ちなみに何でもかんでも行き当たりばったりに装飾したテロップを入れていくと、いざ外注に出すときにルールの統一ができないのでただのごっちゃごちゃな仕上がりになり、うるさくて見づらいです。初めから「このときにはこの字体でこの色でこう出す」と決めておいたほうがいいです。余談ですが)
でも大事なのはそこじゃないんです、本当は。
映像制作という登山のスタイルをみんな勘違いしているんです。
「空気」を持っている者だけが「山頂」に到達できる。
皆さん、動画寄りの制作システムを一度、映像寄りに切り替えて考えることはできませんか? 画面上で何とかカタチにするのを目指すんじゃなくて、撮影現場にある「空気を封じ込める」ための編集作業です。
そもそもよく自分の登録チャンネルを見て考察してください。楽しくて繰り返し見るチャンネルはどんなものですか? お手本にしているものは? 映っている人の言動が楽しい、好感が持てる、その場の空気が面白い、ライブ感がある、そういうものじゃないですか?
つまりはゴテゴテ文字や絵で飾るのは演出の一手段であって至上の目的ではない、ということです。今、今日イチいいこと書きました。
もちろん好きでいっぱいテロップ入れたい、三度の飯よりテロップとエフェクトが好き、というなら止めません。でもそれが絶対ではない、ということです。
もっと、このカットのケツもう少し伸ばしたほうが視聴者の笑いシロ(笑っていられる時間。これがないと笑っている間に話が先に進むので忙しなくて感情移入できない)あってええんちゃうか? という空気感にこだわることのほうが大事な気がします。えーっと、あの、みたいな言い淀みを全部カットして人物が細切れに動くジャンプカット(ジェットカット)にしている人が多いけど、それで情報は伝わっても感情は死にます。ジャンプカットで人は誰かを好きになれません。
きっちり空気感を封じ込めた映像はテロップ一枚もなくても笑えるし、泣けるし、何度でも見たくなるはずです。むしろテロップはそれがないからこそのゴマカシなんです(言いきっちゃった。本業でもつねにごまかしてます)。
まさに登山の酸素ボンベと一緒で、空気をじゅうぶん封じ込めた映像だけが再生数の高みへと登れるんです。
登れなくってもいいじゃない、初心者だもの。
上から目線で小難しいことを書きましたが「いや、俺は無酸素単独登山を成し遂げるんだ」ぐらいの気概でがんばらはる人は止めません。応援します。でも誰もがその登山スタイルで行かんでもええと思うんです。何やったら途中で引き返してもいいし、そこに住み着いて登山小屋を設けてもいい。頑なに疲弊するシステムにしがみつくのはもうやめようよ。意固地になって外注に出して、賃金の低下に拍車をかけるのはやめようよ、ということなんです。
誰もが気軽に動画を撮れる時代だからこそ、もう一度映像の本質について考えてほしい、という願いでした。
最初は「オレも何か撮れんちゃうん、作ってみよ」でいいと思うんです。「ひと儲けしたるでー」でもいいです。でもその過程のどこかで自分がクスッと笑ったり、心が動いたり、大事だなと思えることを発見したら、もう闇雲に既存のスタイルを模倣するのはやめて、その大切な心の動きを伝えるために工夫を重ねてください。そうしたら映像制作はきっと地味でつまらない単純労働じゃなくて、輝きに満ちたクリエイティブな活動になると思います。
もしそのお手伝いをできたら嬉しいです。先にだいぶ進んで何回も道に迷ったポンコツハイカーですが、何かお力になれることはあると思います。