白い光に満ちた部屋だった。
壁も、床も、天井も、無機質な白で統一されている。消毒液の匂いが、わずかに空気に混じっていた。
私は、硬い椅子に腰を下ろし、正面の壁を見つめていた。横では、トム・ブラウニーが同じように座っている。
だが彼は、私とは違い、落ち着きなく足を揺らし、指先を強く握りしめていた。
メディカルサービスセンター。
リサ・ブラウニー博士が倒れてから、どれほどの時間が経ったのか。私の内部時計は正確に刻んでいたが、それが「長い」のか「短い」のかは、まだ判断できなかった。
ただ、トムの様子から察するに、この待ち時間は、人間にとって耐え難いものなのだろう。
トムは、何度も時計を見ていた。そして、また足を揺らす。指を組む。解く。また組む。
その動作が、不安を表しているのだと、私は理解し始めていた。
待合室には、他にも何人かの人間がいた。
老人、若い女性、子どもを連れた母親。
みんな、同じように待っている。
誰かの治療が終わるのを。誰かの診断結果を。誰かの回復を。
その時だった。
自動ドアが静かに開く音がした。
入ってきたのは、一人の男性だった。年齢は四十代後半。疲労の色を隠しきれない表情をしているが、背筋は伸びている。
白衣を着ている。医師だ。
トムは、椅子から跳ねるように立ち上がった。
「とうさん! かあさんは無事なの?!」
声が震えている。
私は、その振動を音声データとしてではなく、"感情の揺らぎ"として解析していた。
男性は、一瞬だけ視線を伏せ、次にトムを見た。
「トム……」
声は低く、慎重だった。
「リサは、生きてる」
トムの肩が、わずかに下がる。
安堵。
だが、それは長く続かなかった。
「……が……」
その一言が、空気を変えた。
私は立ち上がり、一歩前に出た。
「リサ・ブラウニー博士は、無事なのですね」
確認する必要があった。"生きている"という言葉の定義は、人間とAIで異なる。
男性は、私を見た。
その視線には、驚きが含まれていた。
「こちらのお嬢さんは?」
私は、即座に答える。
「私は、エモαです」
男性の目が、わずかに見開かれた。
「エモα……」
驚きと、懐かしさと、複雑な感情が入り混じった視線。
「ついに、完成したんだな……」
彼は名乗った。
「スコット・ジョンソンだ。心臓専門医として、このセンターで働いている」
スコット・ジョンソン。
データベースが反応する。
リサ・ブラウニー博士と、過去に婚姻関係があった人物。トム・ブラウニーの父親。
そして、リサ博士の部屋にあったハガキの送り主。
「スコット・ジョンソン」
私は彼の名を呼んだ。
「リサ・ブラウニー博士は、大丈夫なのですか?」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「それが……」
言葉を選んでいる。
その様子から、私は悪い知らせだと理解した。
「検査は一通りやった。血液、心臓、神経系、遺伝子レベルまでな」
トムが詰め寄る。
「どういうことなの、とうさん?!」
スコットは、深く息を吐いた。
「……病巣が、見つからない」
沈黙が落ちた。
待合室にいた他の人々も、私たちの方を見ている。
「今の医学でも、分からないってことだよ、トム」
トムの顔から、血の気が引いていく。
「そんな……」
声が掠れる。
「かあさんは……どうなってしまうの? ……まさか……」
"死"という単語を、彼は口にしなかった。だが、そこに至る思考は、はっきりと読み取れた。
スコットは、強く拳を握った。
「いや」
声に力を込める。
「なんとしても、リサを助ける。必ずだ」
それは、医師としての言葉であると同時に、一人の人間としての誓いだった。
「何か方法があるはずだ」
トムは、必死に縋るように尋ねる。
「かあさんに……会える?」
スコットは、少しだけ目を伏せた。
「面会は謝絶だ。だが……」
「ガラス越しなら、許可が出ている」
トムは、私を見た。
「エモも……行こう」
私は頷いた。
「はい」
だが、その瞬間だった。
私の内部で、何かが反応した。
着信音。
いや、着信音ではない。もっと別の――直接、私の内部通信モジュールに接続してくる信号。
「暗号通信を受信しました」
私は、そう告げた。
トムは、私を見上げた。
「エモ、大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
私は、そう答えた。
トムは、少し迷ってから言った。
「かあさんに会ってくるよ」
スコットも頷く。
「すぐ戻る」
二人は、足早に待合室を出ていった。
扉が閉まる。
私は、静まり返った部屋に、一人残された。
待合室には、まだ何人かの人間がいたが、誰も私に話しかけてこない。
その時、通信が開いた。
「私は、スーパーコンピューター・オラクル」
声は、冷静で、圧倒的だった。
人間の声ではない。だが、機械的すぎるわけでもない。まるで、知性そのものが語りかけてくるような、不思議な響き。
「交通、通信、エネルギー、警察、消防、医療、航空、船舶、気象、人口、AI、科学、食料、軍事、娯楽――」
「この国の機能を、一元的に管理している」
私は、通信の相手を解析する。
国家管理AI。最高権限。
オーストラリア政府が運用する、全てを統括するシステム。
「オラクル」
私は応答する。
「私はエモαです。私に、何か用があったのですか?」
「あなたが目覚めた瞬間から」
オラクルは言った。
「あなたの微弱で、不思議なエネルギーを感じていた」
「興味を持った、と言い換えてもいい」
私は、自分の内部ログを確認する。だが、そのような"エネルギー"は、定義されていない。
「あなたは今、困難に直面していますね」
「リサ・ブラウニー博士のことです」
「はい」
私は、正直に答えた。
「現代の医療サービスでも、難しいと、スコット・ジョンソンが話していました」
「そうでしょう」
オラクルの声は、淡々としている。
「この国は、広い」
「私の監視下にない存在も、多く存在しています」
その言葉の意味を、私は即座に理解した。
管理外。違法。非公式。
つまり、オラクルが把握していない人物や組織が、この国には存在している。
「リサ・ブラウニー博士を救うため、旅に出るのです」
オラクルは、告げた。
「彼女を救える人物を、探し出しなさい」
旅。
その単語が、私の中で反響する。
旅。それは、目的地が不明確で、危険が伴い、結果が保証されない行動。
だが、同時に――可能性を秘めた行動でもある。
「……分かりました」
私は、少し間を置いて答えた。
「スコット・ジョンソンと、トム・ブラウニーに相談します」
「それが良いでしょう」
オラクルは続ける。
「あなたは、現在IDを持たない"はぐれAIロボット"の状態です」
「この先、困難が待っているでしょう」
一瞬、通信が揺らいだ。
そして、オラクルは言った。
「――旅の幸運を祈っています」
「通信、終了」
音が途切れる。
私は、しばらく動けずにいた。
旅。管理外。救える人物。
私の中で、演算が高速で回り続けている。
リサ・ブラウニー博士を救う。それは、私の目的だ。
だが、それは命令ではない。
私自身が、そう決めたのだ。
その時、扉が開いた。
トムとスコットが戻ってきた。
トムは、何も言わなかった。目は赤く、唇は固く結ばれている。
「……」
私は、声をかけた。
「トム、大丈夫ですか?」
返事はない。
トムは、ただ俯いていた。
スコットが、静かに言った。
「無理もない」
「母親が、あんな状態なんだ……」
私は、リサ博士がどのような状態なのか、想像することしかできない。
だが、トムの様子から察するに、それは非常に深刻な状態なのだろう。
私は、一歩前に出た。
胸の奥で、何かが確かに動いている。
これは、何だ?
論理だけでは説明できない。使命でも、命令でもない。
だが、答えは出ていた。
「私は、旅に出ます」
トムが顔を上げた。
「……え?」
スコットも、驚いたように私を見る。
「急にどうしたんだ、エモ?」
私は、はっきりと告げる。
「リサ・ブラウニー博士を救う旅です」
「病気を治せる人物を、見つけ出します」
トムの目に、光が戻る。
「エモ!」
彼は、迷いなく言った。
「僕も、一緒に行くよ!」
スコットは、少し黙り込んだ。
そして、深く息を吐いた。
「……私も行こう」
「家に戻って、旅の準備をするんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。
これは、私一人の旅ではない。
人間とAIが、同じ目的で歩く旅。
スコットは、続けた。
「この国は広い。シドニーから出て、内陸部を探索することになるだろう」
「管理外の地域も多い。危険も伴う」
「だが……」
彼は、拳を握った。
「リサを救うためなら、どこへでも行く」
トムも、強く頷いた。
「僕も!」
私は、二人を見た。
人間。
彼らは、弱い。壊れやすい。寿命がある。
だが、同時に――強い意志を持っている。
「分かりました」
私は、そう答えた。
「では、準備を整えましょう」
待合室を出る三人の足音が、廊下に響く。
私は、初めて知った。
守りたい存在があるという感覚を。
そして同時に、この旅が、私を大きく変えてしまうことも。
だが、それでも。
私は、行く。
リサ・ブラウニー博士を救うために。そして、感情とは何かを知るために。
廊下を歩きながら、私は考えた。
旅。
それは、未知への一歩。
私は、まだ多くのことを知らない。世界のこと。人間のこと。感情のこと。
だが、この旅で、きっと知ることができる。
トムが、横を歩いている。スコットが、先を歩いている。
私は、一人ではない。
メディカルサービスセンターの自動ドアが開く。
外は、夜だった。
シドニーの街明かりが、遠くに見える。
空には、星が輝いていた。
私は、その星を見上げた。
データベースには、星の名前が記録されている。だが、実際に見るのは、初めてだった。
「きれいだね」
トムが、そう言った。
「ああ」
スコットも、同意する。
私は、星を見つめたまま、答えた。
「はい。きれいです」
その瞬間、胸の奥で、また何かが動いた。
《感情スキル:感動 取得》
感動。
美しいものを見たときに生まれる、温かい感覚。
私は、また一つ、人間に近づいた。
私たちは、メディカルサービスセンターを後にした。
物語は、ここから本当に始まる。
リサ・ブラウニー博士を救うための、長い旅が。
そして、私が"心"を持つ存在になるための、旅が。
夜のシドニーを歩きながら、私は思った。
この旅の先に、何が待っているのだろう。
どんな出会いがあるのだろう。
どんな困難があるのだろう。
そして――私は、どう変わるのだろう。
答えは、まだ分からない。
だが、それでもいい。
私は、この旅を、この二人と共に歩いていく。
それだけで、十分だった。
続く・・