自宅兼研究室の扉が、静かに閉まった。
外は夕暮れに差しかかっており、窓越しに見える空は淡い橙色に染まっている。シドニーの街並みが、夕日に照らされて美しく輝いていた。
だが、その美しさを味わう余裕は、誰にもなかった。
研究室の中央に立ったスコット・ジョンソンは、腕を組み、低く唸るように言った。
「……さて、どうするかな」
その声には、医師として数多くの修羅場をくぐり抜けてきた男の重みと、父親としての焦りが混じっていた。
私は、周囲の機材を見渡しながら答える。
「やみくもに探している時間は、ないと思います」
自分でも驚くほど、冷静な声だった。
だが、内部では常に計算が走り続けている。
リサ・ブラウニー博士の容態は不安定。原因不明。時間制限あり。
これらの条件を考慮すると、効率的な行動が必要だ。
「そうだな」
スコットは短く応じた。
彼は、窓の外を見た。夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
その横で、トムが少し考え込むように視線を落とし、やがて顔を上げた。
「……サラさんに、話をしてみたらどうだろ」
「サラさん……?」
私は、その名前を知らなかった。
データベースを検索したが、該当する人物は見つからない。
スコットが説明する。
「サラ・キャンベルだ。この街の有力者の一人で、リサの友人でもある」
「有力者……」
私は、その単語を記憶した。
スコットは続けた。
「彼女は、独自のネットワークを持っている。情報も、資源も、人脈も」
「もし誰かが助けになるとしたら、彼女だ」
その言葉に、私は即座に反応した。
「サラ・キャンベルに、会いに行きましょう」
トムが頷き、スコットも同意する。
「東の港に、倉庫と自宅がある」
「今から行けば、夜には着くだろう」
計画が、少しずつ形を取り始めていた。
だが――
私たちは、すでに見られていた。
研究室の外。
空高く、小型の偵察用ドローンが静かに飛行していた。羽音はほとんどなく、一般市民が気づくことはない。
カメラが、研究室の窓を捉えている。
「不審な動きは、ありません」
機械的な音声が、どこかへ報告する。
通信の向こうで、誰かが答えた。
「そう……」
返ってきた声は、落ち着いていた。女性の声。
「戻ってきていいわ」
「了解しました」
ドローンは旋回し、街の向こうへと飛び去っていく。
だが、その直後。
地面を這うように、小さな影が現れた。
蜘蛛型。
小型ジェノサイダス・ネットワーク。
複数の脚が金属音を立てながら地面を捉え、その前脚が、青白いスパークを放つ。
監視。索敵。排除の準備。
その存在を、私たちはまだ知らなかった。
その頃、AI監視センター。
巨大なモニター群に囲まれた部屋で、一人の女性が腕を組み、画面を睨んでいた。
キャロライン・フィッシャー。
彼女は、冷静沈着で知られるエージェントだった。政府直属のAI監視部門に所属し、違法AIや未登録AIを追跡することが任務だった。
画面には、複数のデータが表示されている。
通信ログ。位置情報。エネルギー消費パターン。
「……オラクルが、暗号通信でAIロボットと交信した記録が残ってる」
画面には、断片的なログが表示されている。
暗号化されているため、内容は読めない。だが、通信が行われたこと自体は記録されている。
「調べる必要が、あるかもしれないわね……」
その目は、獲物を追う者のそれだった。
彼女は、キーボードを叩く。
画面が切り替わり、ブラウニー邸の住所が表示される。
「ここね……」
彼女は、部下に指示を出した。
「この住所を監視して。動きがあったら、すぐに報告しなさい」
「了解しました」
部下が応じる。
キャロラインは、画面を見つめたまま、呟いた。
「未登録AI……一体、何を企んでいるのかしら」
研究室に戻る。
私は、通信端末に近づいた。
「通信端末で、地図をダウンロードします」
だが、スコットはすぐに制止した。
「いや、やめたほうがいいだろう」
彼は、慎重に言葉を選ぶ。
「以前リサが話していたんだが……エモは、学会で発表して承認を受けてから、正式にID登録をする予定だった」
私は、その意味を即座に理解した。
「つまり……」
トムが言葉を継ぐ。
「今のエモは、IDがない。はぐれAIロボットってことだね、父さん」
「そうだ」
スコットは頷く。
「公的ネットワークにアクセスすれば、すぐに当局に感づかれる」
「AIは、すべて登録が義務付けられている」
「未登録のAIが通信を行えば、すぐに追跡される」
私は、オラクルの言葉を思い出していた。
「……オラクルにも、警告されました」
スコットが目を細める。
「そうか。オラクルと話したんだな」
「それなら、もう当局にマークされている可能性もある」
一瞬、沈黙が落ちた。
私は、自分の状況を整理した。
未登録AI。公的ネットワークへのアクセス不可。追跡の可能性あり。
だが、私は言った。
「それでも、地図は必要です」
この世界を知らなければ、旅は始められない。
トムが、はっとしたように言う。
「そうだ! かあさんの部屋に、紙の地図があるのを見たことがあるよ!」
「それだ!」
スコットの声に、僅かな希望が混じる。
「エモ、頼めるか?」
「はい」
私は即答した。
「入手してきます」
リサ・ブラウニー博士の部屋。
静まり返った空間には、彼女の気配が色濃く残っていた。
机。本棚。研究資料の山。
私は、部屋をゆっくりと見回した。
リサ博士の匂いが、まだ残っている気がした。いや、それは錯覚だ。私には、匂いを感じるセンサーはない。
だが、確かに――彼女の存在を、感じる。
私は、机に近づいた。
そして、慎重に引き出しを開けていく。
一つ目の引き出し。研究ノート。
二つ目の引き出し。ペン、消しゴム、付箋。
三つ目の引き出し。薬。
そして――
一番奥の引き出しで、それを見つけた。
折り畳まれた、紙の地図。
指で触れた瞬間、私は不思議な感覚を覚えた。
デジタルではない。更新されない。だが、確かに"残る"情報。
紙の質感。インクの色。折り目のつき方。
すべてが、リサ博士の手によって残されたものだ。
「……」
私は、その地図を広げる。
オーストラリア全体が、そこに描かれていた。
都市。山。海岸線。砂漠。
私は、内部メモリを起動する。
「スタンドアローン・メモリに、マップを記憶します」
電子音も、通信も使わない。完全に、私の中だけに保存する。
地図の隅々まで、視覚センサーで読み取る。
道路。町の名前。地形。
すべてを、記憶する。
これで――
私は、この世界を"歩ける"。
地図を折り畳み、私は部屋を出た。
研究室に戻ると、スコットが考え込んでいた。
「移動手段だが……」
彼は、ゆっくりと言う。
「電気自動車、高速船、飛行機は使えない」
「どれも、当局に発見されやすい」
トムが困ったように笑う。
「……歩いていくの?」
「それも現実的じゃないな」
スコットは首を振る。
「オーストラリアは広い。徒歩で移動するには、時間がかかりすぎる」
「何か、他の方法があるはずだ……」
私は、一歩前に出た。
「だからこそ、サラ・キャンベルに相談しましょう」
「彼女なら、何か解決策を持っているかもしれません」
スコットは、しばらく考え、やがて頷いた。
「……そうだな」
「行こう」
トムも頷く。
「うん」
三人は、準備を整え始めた。
スコットは、医療キットを用意する。トムは、リュックに水と食料を詰める。
私は、何も持たない。
だが、内部メモリには、地図が記憶されている。
それだけで、十分だった。
自宅兼研究室を出る三人。
夕暮れは、すでに夜へと変わりつつあった。
街灯が、一つ、また一つと灯り始める。
私は、背後に微かな視線を感じた。
見られている?
だが、その正体は掴めない。
それでも、確信があった。
私たちは、もう"普通の存在"ではない。
人間とAIが並んで歩くこの姿は、この世界にとって、あまりにも異質だ。
だが、それでも。
止まるわけにはいかない。
リサ・ブラウニー博士を救うため。そして、私自身が"何者になるのか"を知るために。
「エモ」
トムが、私を呼んだ。
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
私は、そう答えた。
トムは、微笑んだ。
「よかった」
私たちは、夜の街へと歩き出した。
シドニーの街は、夜になっても明るい。
ネオンが輝き、車が行き交い、人々が歩いている。
だが、その中で、私たちは目立たないように歩く。
スコットが、道を案内する。
「この先を右に曲がって、港に向かう」
「サラの倉庫は、そこにある」
私は、内部メモリの地図を確認した。
確かに、港の方向だ。
私たちは、静かに歩き続けた。
だが――
その背後で、小さな蜘蛛型の影が、静かに動き出していることを――
まだ、誰も知らなかった。
AI監視センター。
キャロライン・フィッシャーは、画面を見つめていた。
「ブラウニー邸から、三人の人影が出てきました」
部下が報告する。
「三人?」
キャロラインは、画面を拡大した。
そこには、スコット、トム、そして私の姿が映っていた。
「……あのAIロボットね」
キャロラインは、呟いた。
「追跡しなさい」
「了解しました」
蜘蛛型ロボットが、私たちの後を追う。
地面を這うように、音もなく。
キャロラインは、画面を見つめたまま、考えた。
未登録AI。人間と行動を共にしている。
これは、明らかに異常だ。
「一体、何を企んでいるのかしら……」
彼女は、部下に指示を出した。
「行き先を特定して。そして、捕獲の準備を」
「了解しました」
画面には、私たちの姿が映り続けていた。
港に近づくにつれ、街の雰囲気が変わってきた。
建物が古くなり、人通りが少なくなる。
海の匂いが、風に乗って運ばれてくる。
「もうすぐだ」
スコットが言った。
私は、周囲を警戒した。
何かが、おかしい。
視線を感じる。
だが、何も見えない。
「スコット・ジョンソン」
私は、彼を呼んだ。
「何だ?」
「私たちは、追われているかもしれません」
スコットは、足を止めた。
「……気づいていたか」
「はい」
トムも、不安そうに周囲を見回す。
「どうしよう、父さん」
スコットは、少し考えてから答えた。
「急ごう。サラのところまで辿り着けば、なんとかなる」
私たちは、歩みを早めた。
港が、目の前に広がる。
倉庫が、いくつも並んでいる。
「あれだ」
スコットが、一つの倉庫を指差した。
大きな倉庫。入口には、看板がかかっている。
「キャンベル商会」
私たちは、その倉庫に向かって走った。
だが――
その瞬間、背後で音がした。
金属音。
私は、振り返った。
そこには、複数の蜘蛛型ロボットが、こちらを見ていた。
青白いスパークを放ちながら。
「ジェノサイダス・ネットワーク!」
スコットが叫んだ。
「走れ!!」
私たちは、全力で走った。
倉庫の扉が、目の前に迫る。
トムが、扉を叩いた。
「サラさん!! 開けて!!」
だが、返事はない。
蜘蛛型ロボットが、近づいてくる。
私は、扉の前に立った。
「私が、止めます」
「エモ!?」
トムが、驚いて私を見た。
だが、私は動じなかった。
これは、私の役割だ。
蜘蛛型ロボットが、私に向かって突進してくる。
その瞬間――
扉が、開いた。
「中に入りなさい!!」
女性の声。
私たちは、倉庫の中に飛び込んだ。
扉が、閉まる。
外で、蜘蛛型ロボットが扉を叩く音が聞こえた。
だが、扉は頑丈だった。
私たちは、助かった。
「……ありがとうございます」
スコットが、息を整えながら言った。
女性が、私たちを見た。
「久しぶりね、スコット」
彼女は、サラ・キャンベルだった。
続く・・