私は、スウェーデンの小学校でfritidspedagogという仕事をしていました。
Fritidspedagogというのは、日本でいうところの、クラス副担任と学童指導員を兼業する役職です。
スウェーデンの公教育現場における日本との大きな違いは、クラスを構成する生徒のバックグラウンドの多様性です。
その背景には、スウェーデンが、20世紀後半以降に発生した多くの戦争に直接的に巻き込まれなかったことが非常に大きく影響していますが、それはまた別の場でお話しできればと思います。
スウェーデンの小学校に話を戻します。私は、日本でも細々と7年近く、学童保育の子供たち、時にハンディキャップを持つ子供たちと関わって来ました。そして、スウェーデンで子供と関わりながら、子供はどこの国でも似たようなことで喧嘩したり、揉めたりしているなぁと、日々実感したものでした。
でも、その中で、これはスウェーデンならでは!と思う子供たちのスタンスもあります。
例えば、授業中にクラスの一人が、ふざけて大声で悪態をついているとしましょう。
日本だったら、小さな先生みたいな子たちがいて、ふざけている子を注意したり、やめさせようとしたりしそうです。
でも、スウェーデンのクラスでは、滅多にそういう風景は見られません。
わずか6歳の子供たちが、「〇〇はそういう子だから。」と言って受け流し、
淡々と授業を聞いたり、宿題になりそうな個所の問題を解いたりしているのです。
この違いはなぜ生まれるのか。
私は、スウェーデンでは、大人に認められることが、子供にとって自己の存在意義に関わるほどの重要性を持たないのだと見ています。
「人は人、自分は自分」という精神が、幼い段階で浸透していて、それは大人にも当てはまるのです。先生は先生、私は私。親は親、私は私、と。
親や先生といった、身近な大人の存在は確かに大事で、
子供たちも、困ったら先ずはそういう大人に助けを求めてきます。
しかし、彼らは「大人がそう言ったから」と盲目に言う通りにはしませんし、
そうするように大人から仕向けられることはありません。
自身の言動について、基本的に誰からも強く改善を求められないため、
逆に、どんなに問題児でも最後には放置されています。
そういう意味では、スウェーデン流は若干残酷で、それについて賛否両論数々あります。
しかし、確かなのは、スウェーデンの子供たちは、
自身の言動を決めるための判断を何度もミスし、それを許してもらいながら成長していきます。
それがスウェーデン国民の、他人に対する寛容さに繋がっている気がします。