貴方という神にご覧頂きありがとうございます。
さて、イエスさまの大切な日をこえて
頂いた大切なメッセージをお伝えしたいと思います。
イエスさま
『心に映るもの、目に映るもの、この二つに差異のない様に。
全てを心にあわせていきなさい。』
イエスさまの言葉はいつもシンプルです。
しかし、その言葉の中に多次元展開する宇宙があり、その意識領域へと移行するために、それを実際腑に落とし、その様に体現するために、自分なりに内を見つめ続け、その言葉の真意を求め続ける、それが私にとっての人生そのものです。
今の私の、この言葉の解釈は、
『心、ハート』の住人は常に調和へと働きます。
もし、自分の意識が調和以外にあるならば、それは、思考に支配されている時です。
そして人の肉体の目は、無意識に外へと向かい、目に映る幻想を答えだと、真実だと、あまりにも納得するに充分な刺激と体感で、その幻想に説得力を与えます。
しかし、その説得力の根底は、
いつも自分の外から、愛が来て自分を満足させる様に、誰かからの承認が自分の価値を認めゆるす様に、全ての自分の人生の責任は、自分が幸せになるかの基準は、他者や周囲、社会、環境によって決められるものだ、と認識しています。
その意識は、顕在意識、潜在意識、更には無意識界にまで深く入り込んでいますが、
一旦、その意識が崩壊する様なイニシエーションがはじまると、
過去自分の作り上げた全ては崩れ去り、
内と外、心も現実も『自分を失った』と感じることでしょう。
誰かの答えや、外に見ていた絶対的な権力は力を失い、外に溢れているものは、自分ではない様々な意識、概念で埋め尽くされていると感じ、深く深く自分に引き戻されていく流れがはじまります。
どれほど愛おしい人や、憧れの恩師であっても、そこに自分の答えはない。
自分の答えでなくては、自分の真実ではない、と。
では、自分とは何なんだ。
自分は一体何処にいるのだ。
外に助けはない。自分で自分を見つける以外に道はない。
そして、全てから離れて気づくのです。
全てを失ったはずの、自分が欲しくて欲しくて仕方がなかった純粋な愛が、
忘れ去った自分の輝きが、生き生きとした胸の鼓動が、
全てが、今、自分の内に。
ここに在る。と。
欲しい、欲しい、と形を掴みたがる意識に別れを告げて、
全ての人が、自分自身の内に分け与えられた、自分の神の光、自分自身の愛が、必ず自分にふさわしい愛と幸せに導いていく。
自分の内に輝く大きな太陽がある、と、
ダイヤモンドの煌めきがある、と、
その全てを生み出し育む、
愛と信頼と幸福の領域に意識を向けて
その自分を中心軸として生きると決めると
自分が外に預けていた様々な意識の断片を今の自分に統合し、目に映るものの意味が、意識が、一夜にして大きく生まれ変わります。
その澄んだ、子供の様な心が映し出す世界は、過去いた領域を見つめ、静かな納得と共に、『全て自分だったんだ』と。
自分自身が自分の愛を疑い、自分の神の光を疑い、自分の価値を疑い、力無きものとして振る舞う、その意識が、外の世界、他者に力を与えている、その事実をあるがままに現実は教えてくれていた。
『愛が壊れていた』
それに気づいた自分は、
全てを自分自身の分身として、
自分への疑いを、全てへの信頼に、
自分への否定を、全てへの包容に、
自分の内なる影への恐れは、統合された光の安心感へ、
自身の体験、経験を、全てへの智慧に還して、
自分への愛と信頼と、自らの光を讃える意識と相手や全ての人々と、いのちたちの幸福を祈る想いと共に、永遠の自分を探求する旅の新たな章がはじまる。
その新たな旅路において、
この肉体の目がとらえるものの見方を、
その子供の様に澄んだ純粋な心と、愛と信頼と神の光をぴったりと重ねて、そこから全てを見る様に、愛からずれのない様に、
その様な在り方を見つめてごらん。
と、イエス様はおっしゃっていると感じています