その瞬間からだった。
美月の頭の中は、
“銀座”という二文字で埋め尽くされた。
一度も働いたこともない。
一度も足を踏み入れたこともない。
それなのに――。
まるで遠くから誰かに名前を呼ばれているような、
不思議な感覚が胸の奥で鳴り続けていた。
もしかしたら。
川崎先生のお姉さんに会えば、
何かが変わるかもしれない。
いや、
変わるのではない。
もう人生そのものが、
そこへ向かって動き始めている気さえした。
『おかあさん、私ね…銀座へ行ってみたい』
バークレーのカウンターで、
私はぽつりと呟いた。
『あら、急ねぇ』
『だって今のままここにいても、
何か違う気がするの。
最近のお店、息苦しくて…』
指名争い。
売上争い。
女同士の牽制。
誰かが笑えば、
誰かが嫉妬する。
そんな空気に、
もう疲れていた。
『それでね、川崎先生のお姉さんが銀座のママさんなの。
この前、週刊誌に載ってたのよ』
『まあ…』
ママは少し驚いたように目を細めた。
『銀座のママなんて大したものよ。
あの街はね、華やかに見えて本当に怖いところ。
覚悟のない人間は簡単に飲み込まれるわ』
『でも私、一度行ってみたい』
『ふふっ、美月ちゃんらしいわね』
ママは笑いながらも、
どこか真剣な顔をしていた。
『ただね。
銀座って“選ばれる街”なの。
誰でも立てる場所じゃないのよ』
その言葉が、
なぜか胸に残った。
――選ばれる。
私はその夜、
眠れなかった。
高坂は東京へ行ってしまった。
遠距離になってから、
心のどこかにぽっかり穴が空いたままだった。
会いたいのに会えない。
声を聞けば寂しくなる。
そんな曖昧な毎日の中で、
銀座という街だけが妙に鮮明に見え始めていた。
数日後。
川崎先生が東京から戻ってきた。
『先生!どうだった?』
『おいおい、座るなりそれかよ』
先生は笑いながら水割りを口にした。
『で?お姉さんは?』
『元気だったよ。
いや、元気どころじゃないな。
今の銀座は景気がいいらしくて、
人が足りないって言ってた』
『ほんと!?』
『それから――』
先生はわざと間を空けた。
『美月ちゃん、一度会ってみたいってさ』
『えっ…』
一瞬、
呼吸が止まった気がした。
『先生、本当に聞いてくれたの?』
『当たり前だろ。
街一番の美人で人気者だってちゃんと宣伝しといた』
『もう!大げさなんだから』
そう言いながらも、
胸の奥が熱くなった。
本当に。
本当に銀座へ行くのかもしれない。
『来週の土曜、東京行けるか?』
『えっ、そんな急に!?』
『嫌なら断るけど?』
『行く!』
自分でも驚くくらい、
即答だった。
怖い。
でも――。
このまま終わりたくない。
地方の街で、
誰かと競い合って、
疲れて、
愚痴を言って。
そんな毎日を繰り返すために、
私は夜の世界へ入ったわけじゃない。
『先生ありがとう』
『まだ早いよ。
銀座なんて甘い場所じゃないからな』
『うん…』
その時だった。
ふと、
バークレーのママの言葉が頭をよぎった。
“この町にいたら、
その運は開かない”
偶然マンション広告を見つけたこと。
川崎先生の事務所へ迷い込んだこと。
その先生の姉が銀座のママだったこと。
すべてが、
一本の線で繋がり始めていた。
そして私は、
もう気づいていた。
自分の人生が、
大きく動き始めていることを。