【連載小説】第58話 銀座に呼ばれる夜

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その瞬間からだった。

美月の頭の中は、
“銀座”という二文字で埋め尽くされた。

一度も働いたこともない。
一度も足を踏み入れたこともない。

それなのに――。

まるで遠くから誰かに名前を呼ばれているような、
不思議な感覚が胸の奥で鳴り続けていた。

もしかしたら。

川崎先生のお姉さんに会えば、
何かが変わるかもしれない。

いや、
変わるのではない。

もう人生そのものが、
そこへ向かって動き始めている気さえした。

『おかあさん、私ね…銀座へ行ってみたい』

バークレーのカウンターで、
私はぽつりと呟いた。

『あら、急ねぇ』

『だって今のままここにいても、
何か違う気がするの。
最近のお店、息苦しくて…』

指名争い。
売上争い。
女同士の牽制。

誰かが笑えば、
誰かが嫉妬する。

そんな空気に、
もう疲れていた。

『それでね、川崎先生のお姉さんが銀座のママさんなの。
この前、週刊誌に載ってたのよ』

『まあ…』

ママは少し驚いたように目を細めた。

『銀座のママなんて大したものよ。
あの街はね、華やかに見えて本当に怖いところ。
覚悟のない人間は簡単に飲み込まれるわ』

『でも私、一度行ってみたい』

『ふふっ、美月ちゃんらしいわね』

ママは笑いながらも、
どこか真剣な顔をしていた。

『ただね。
銀座って“選ばれる街”なの。
誰でも立てる場所じゃないのよ』

その言葉が、
なぜか胸に残った。

――選ばれる。

私はその夜、
眠れなかった。

高坂は東京へ行ってしまった。

遠距離になってから、
心のどこかにぽっかり穴が空いたままだった。

会いたいのに会えない。

声を聞けば寂しくなる。

そんな曖昧な毎日の中で、
銀座という街だけが妙に鮮明に見え始めていた。

数日後。

川崎先生が東京から戻ってきた。

『先生!どうだった?』

『おいおい、座るなりそれかよ』

先生は笑いながら水割りを口にした。

『で?お姉さんは?』

『元気だったよ。
いや、元気どころじゃないな。
今の銀座は景気がいいらしくて、
人が足りないって言ってた』

『ほんと!?』

『それから――』

先生はわざと間を空けた。

『美月ちゃん、一度会ってみたいってさ』

『えっ…』

一瞬、
呼吸が止まった気がした。

『先生、本当に聞いてくれたの?』

『当たり前だろ。
街一番の美人で人気者だってちゃんと宣伝しといた』

『もう!大げさなんだから』

そう言いながらも、
胸の奥が熱くなった。

本当に。

本当に銀座へ行くのかもしれない。

『来週の土曜、東京行けるか?』

『えっ、そんな急に!?』

『嫌なら断るけど?』

『行く!』

自分でも驚くくらい、
即答だった。

怖い。

でも――。

このまま終わりたくない。

地方の街で、
誰かと競い合って、
疲れて、
愚痴を言って。

そんな毎日を繰り返すために、
私は夜の世界へ入ったわけじゃない。

『先生ありがとう』

『まだ早いよ。
銀座なんて甘い場所じゃないからな』

『うん…』

その時だった。

ふと、
バークレーのママの言葉が頭をよぎった。

“この町にいたら、
その運は開かない”

偶然マンション広告を見つけたこと。

川崎先生の事務所へ迷い込んだこと。

その先生の姉が銀座のママだったこと。

すべてが、
一本の線で繋がり始めていた。

そして私は、
もう気づいていた。

自分の人生が、
大きく動き始めていることを。
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