時として、
人生は思いがけない方向へ動き出す。
その夜も、そんな夜だった。
一美さんには、田山という太い客がいた。
地元では知らない人がいないほど有名なタクシー会社の社長。
金払いも良く、
店でも特別扱いされる存在だった。
美月も何度か席についたことはあったが、
“あくまで一美さんのお客様”。
そう分かっていたから、
自分から名刺を渡したことは一度もなかった。
その日、田山は珍しく一人で来店した。
そして突然、
『今日は美月ちゃん』
そう言って、美月を指名した。
しかも——
一美さんを外して。
店の空気が、一瞬で変わった。
美月は背筋が冷たくなった。
これはまずい。
女の勘で分かった。
『失礼します』
席につくと、田山は上機嫌だった。
『やっとゆっくり話せるな』
『ありがとうございます。でも私、本当に驚いて……』
『何に驚く?』
『一美さんが……』
田山は鼻で笑った。
『もう愛想が尽きたんだよ』
『……』
『腹が立つことばかりされてな。少し懲らしめたくなったって訳さ』
美月は返事に困った。
こんな話、聞きたくなかった。
けれど客商売に“知らないふり”はつきものだった。
その夜、美月は笑った。
場を盛り上げた。
いつものように。
ただ——
背中に刺さる視線だけは痛いほど感じていた。
閉店後。
更衣室へ呼び出された。
待っていたのは奈々ママと一美さんだった。
空気が張りつめていた。
『あんた、田山さんと何かあったの?』
一美さんの声は怒りで震えていた。
『まあまあ、一美』
奈々ママは冷静な顔をしていた。
だがその目は笑っていなかった。
『美月ちゃん。どうして今日、あなたが指名されたのか説明してくれる?』
『私にも分かりません』
『そんな訳ないでしょ!』
一美さんが怒鳴った。
『あの人、私を援助してくれてたのよ!』
美月の中で何かが切れた。
『それなら田山さん本人に聞けばいいじゃないですか!』
更衣室に声が響いた。
『今日、田山さんは言ってました。一美さんには愛想が尽きたって』
『……!』
『私に当たらないでください!』
その瞬間だった。
『何やってるんだ!』
店長が飛び込んできた。
空気が止まる。
奈々ママは表情を消した。
『……帰るわよ、一美』
二人は吐き捨てるように更衣室を出ていった。
『大丈夫か』
店長がため息をついた。
『田山さん、前にも同じような揉め事起こしてるんだ』
『もう嫌です……』
『気にするな。お前が悪い訳じゃない』
そう言われても、
心は全然晴れなかった。
気づけば、美月はバークレーへ向かっていた。
誰にも会いたくない夜だった。
けれど、
ママには会いたかった。
『あら、美月ちゃん』
ママはすべて分かっていたような顔で微笑んだ。
『顔に書いてあるわよ』
その言葉を聞いた瞬間、
張りつめていたものが一気に崩れた。
『もう嫌なの……』
美月は、その夜の出来事を全部話した。
ママは黙って聞いていた。
『この仕事してたら、よくある話よ』
静かな声だった。
『でも奈々ママは駄目ね。チーママなら女の子同士の潤滑油にならなきゃ』
『最近、お店がおかしいんです』
『焦ってるのよ』
『焦ってる?』
『店を売る話が出てる』
美月は息をのんだ。
『……本当?』
『まだ噂。でも麗子ママ、不動産屋へ頻繁に行ってるらしいわ』
全部が繋がった気がした。
店の空気。
女たちの苛立ち。
売上への執着。
みんな、
居場所を失う不安だったのだ。
『おかあさん』
美月はふと右手を差し出した。
『久しぶりに手相見て』
ママは黙って掌を見つめた。
そして——
表情が変わった。
『……すごい』
『え?』
『四直紋』
聞いたこともない言葉だった。
『親指以外の指に、縦線が四本出てる』
ママは真剣だった。
『これ、人の持つ運を全部持ってる相なの』
『全部……?』
『ただし条件がある』
ママは美月を見た。
『人のために生きられる人だけ』
静かな店内に、グラスの音だけが響いた。
『美月ちゃん』
ママがゆっくり言った。
『思いきって銀座へ行く?』
その瞬間——
美月の中で、
何かが動き始めた。