『ただいま・・・。』
と萌は恐る恐る家の玄関を開けた。
シーンと静まり返った家は妙に不気味な雰囲気で
今にも怒鳴られるのじゃないかと心臓の音だけが響いた。
そっと恒子の部屋へ行き
『恒さん』と小さい声で呼んでも返事がなく部屋を覗いたが
綺麗に整頓されたままだった。
そして居間へと入ったが何か変だった。
綺麗好きな2人だからテーブルの上にはいつも何も置いていないはずなのに
今までそこに人がいたようにコーヒー茶碗や湯呑が置きっぱなしで
しかも椅子が倒れていた。
もしや2人に何かあったのかと驚いて母親の寝室へ駆け込んだが
やはり母親もいなかった。
どうしたんだろう?何処へ行ったのかしら?
もしかしたら私を探しているの?
といろいろな推測で頭が混乱した。
と、その時電話が鳴って飛び上がりそうになった。
『もしもし』
『あ、萌あなたどこにいたの!まったくもうこんな時に!』
『おかあさん、どこにいるの?何かあったの?』
『どうもこうも恒さんがいきなり倒れたのよ、救急車で運ばれて今やっと落ち着いたところよ』
『え!恒さんが、、、大丈夫なの?』
『大丈夫な訳ないでしょ、昨日の夜から一睡もしないで
あなたを待っていたのよ。自分のせいだと何度も謝って
もう寝たほうがいいと言ったのだけど、あなたを待つからと朝まで起きてて
やっと寝るように頼んで席を立ったとたんバタンと椅子から落ちて
そのまま意識なくなったのよ。それから大変だったわよ』
『ごめんなさい。私のせいで』
萌はとんでもないことをしたと今さらながら悔やんだ。
『また詳しいこと後で話すからあなたも急いでここに来なさい!』
どうしよう恒さんにもしものことがあったら、、、
萌は病院の場所を聞いてすぐにタクシーに乗り込んだ。
運良く恒子は命に別状がなく
心労が重なり眩暈がしただけだと分かってほっとしたのだけれど
年齢も年齢なので精密検査も兼ねて暫らく入院することになった。
母親からはかなり叱られたが恒さんのことがあってか
無断外泊のことはあまり追求されずに済んだ。
それから数週間が経ったある日、
恒子はすっかり元気になったが
心配した長男に引き取られ家を出ることになった。
萌は泣きながら恒子に抱きついて離れなかったが
これも運命だからと諦める他なかった。
萌はあの日の夜の出来事で拓海の本心が分からなくなった。
あれから1度も連絡もなく、萌から電話をしたほうがいいのか迷った。
智史が言っているようにただ女好きだけなのか
経験のない萌には男性を判断するすべもなかった。
ただ言えるのは消化しきれない恋心に喘いでいたのだ。
そんなある日、
友達の奈美を誘って例の六本木のゲームセンターで遊んでいたら
奥のほうで女の子の悲鳴が聞こえた。
またあの3人組が女の子に抱きついていたのだった。
萌たちは係わり合いたくなかったので急いでそこから離れようとしたら
『やめろよ、嫌がってるじゃねえか』
『あっ先輩!』
あの時と同じ場面でそこに拓海がいたのだ。
今回は智史は一緒ではなかったが完全に同じパターンだったので
萌はその時初めてそれは拓海の芝居だったことがわかった。
全身に冷たい水を浴びせられたような感覚にその場から動けなくなった。
このままでは拓海に見つかってしまうと焦れば焦るほど足が思うように動かない。
『ねえ、萌、早くここから出ようよ、何だか怖いよ』
と奈美は焦りながら言った。
拓海との距離はたった3メートルしかなかった。
みんな嘘だったのね。
甘いささやきも吐息も、
あの夜に感じた温もりさえ、
すべてが嘘だったのだ。
その瞬間、萌の中で何かが音もなく崩れた。
萌は声も出さずに泣いた。
自分の甘さに自分の恋心に。
そして恒さんをあれほど心配させてしまった
自分の愚かさに。
こうして萌の恋は、あまりにも呆気なく幕を閉じた。
『もしもし俺、智史だけど』