その頃、雅子の知らないところで、3人の男の心が
静かに揺れていた。
だが当の本人は、そのすべてを「未来への材料」としてしか見ていなかった。
置屋というのはいろいろな男性が出入りする。
例えば男衆と呼ばれる芸妓さんの着付けを専門にしている人がいて
蔦乃屋にも昔から出入りしている与三郎という花街では有名な男衆がいたが
着付けの仕事はかなり力を使うということもあり
ここ数ヶ月は長男の与一が担当することになった。
気真面目で頑固一徹の父親とは違い
甘いマスクと長身の与一はまるで歌舞伎役者のようだった。
『雅子姉さんちょっと痩せました?』
と与一は芸妓特有の赤で光沢のある紋綸子の長襦袢を
着せながら雅子の耳元でささやいた。
そしてさりげなく身八つ口から雅子の柔らかい部分へと触れた。
それは若さゆえの衝動というより男の欲そのものだった。
芸妓と男衆の色恋沙汰はご法度というのが定説だか
実際は有り得ないことでもなかった。
『与一さんはいたずら好きね。こんな事するとおかあさんに言いつけるわよ』
とその手を叩いた。
『お願い、それだけは』
と言いながら今度はもっと大胆に触ってきた。
『もう早く支度しないとお座敷に遅れるわ』
『すみません。雅子姉さん。
でも雅子姉さんのこと好きで好きで仕方ないの。
この気持ちどうにかしてください』
と与一は雅子に抱きついてきたが
この程度の男では心が揺れるほど甘くないと内心思った。
それから酒屋の次男で俊二と言って誰からも好かれる好青年で
長男がさっさとサラリーマンになってしまったために
自分が店を守ると言って学校を卒業してすぐに家業を継いだ。
ある日の午後
『雅子ちゃんはどんな男が好きなんだい』
と俊二は雅子に裏の木戸まで呼んでいきなり尋ねた。
『え?好きなタイプ?突然どうしたの?』
『いやー、実は俺なんかどうかななんて思ってさ』
『どうかなって?』
『付き合ってほしいんだ』
と俊二は手が汗ばんでくるのが分かった。
冗談のように言いながら実はここ数日
なんて言おうか悩んで悩んでやっと言えたのだったが
雅子には冗談としか聞こえなかったようだ。
『また冗談ばかり言って、俊二さんは友達じゃないの』
『友達かぁ、それって友達以上にはなれないって感じかな?』
『もう変なの、さあさあおかあさんが来ちゃうし
誤解されてもいやだからまた今度ね』
『わかったよ。じゃ、またな』
と俊二は勇気を出した告白も笑いで誤魔化されたのか
冗談としか取ってもらえなかったのか分からないまま
釈然としない態度に少なからずショックを受けた。
雅子の本心はもし俊二の手を取っていたらきっと平凡で穏やかな人生が待っていると
分かっていたが自分の欲望を満たすことには程遠いと思った。
そして最後の1人はある雨の日に出会った謎めいた男だった。
いつものお座敷から帰ろうとしたらいつからか雨が降っていて
傘を借りようかどうしようかと一瞬躊躇していたら
後ろから一本の傘が突然開き雅子に差し出された。
今まで何処かのお座敷にいたお客様には間違いないのだが
何も言わずそのまま立ち去ったのだった。
その人は一度も後ろを振り返ることなく雨の中を小走りに行ってしまった。
お礼を言う間もなく。。。
分かったのは精悍な横顔と自信に溢れる背中だけだった。
そして雅子はその日からその人の面影が忘れられなくなった。
それから1ヶ月もたったある日、
偶然にもその男性と再会できた。
それは決まっていたかのような出会いだった。
三上さんと言ってある議員さんの秘書をしている人だった。
当時のお座敷は政財界の夜の会議室のような役目もあり
時として大物議員や一流企業の経営者の接待などに利用された。
雅子も誰でも知っているような人のお座敷に呼ばれることもあり
そこで見たり聞いたりしたことは他言しないというのが昔からの不文律だった。
お座敷に向かう廊下でその出会いは突然訪れた。
『あっ、こんばんは』
雅子は三上の顔を見た瞬間あの時の人だと気づいて
驚きと嬉しさで頬の火照りを感じた。
『こんばんは』
と三上は何気ない仕草の中にどこか上品さを感じた。
『あの、私の事を覚えていらっしゃいますか?』
『どこかで会ったかな?』
『ええ、実は1ヶ月前くらいにこのお店の玄関で傘を貸していただいて、、、』
『ああ、あの時の芸妓さんか、あまりに後姿が綺麗で見とれたよ。
それで困っているようだったからね』
『後姿ですか、、、』
『いや失礼、こうして正面を見るともっと見とれるな』
『もうご冗談ばっかり、そんなに見ないでください』
と雅子は三上の澄んだ瞳の奥にまだ知らない世界が広がっているようで
目が離せなかった。
傘を差しだされたあの日から雅子の運命は静かに軋み始めていた。