【連載小説】第6話 見えない綱

【連載小説】第6話 見えない綱

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小石川植物園から程近い桜の名所、播磨坂から一筋入ったその家は、
花街の喧噪とは別世界のように息を潜めていた。
2階建ての一軒家でけして広くはないが
庭の手入れも行き届いた瀟洒な建物だった。

雅子は急に自由になったものの
三味線の音や賑やかな笑い声が途絶えることがないような生活だったので
白山は静か過ぎて戸惑っていた。
だが今は一人ではない。
萌は大人しい子でめったに泣きはしなかったが
それでもお腹が空くと定期的に泣いてみせた。

櫻木から育児と身の回りの手伝いにと
恒子というお手伝いさんが通いできてくれることになり
初産の雅子にとっては頼もしい女性であった。

恒子は早くに旦那と別れ女手一つで3人の子供を育てた経験があり
今は全員独立をして自由気ままな年金生活をしていたが
以前櫻木邸でお世話になった関係で
櫻木から直々恒子に今回の大役をお願いされたのである。
時間を持て余してしたので渡りに船と一つ返事で承諾したものの
こんなに若い女性がどうして櫻木の子供を生んだのかと
最初は不思議に思っていたのだが
雅子を見ていると昔、苦労していた頃の自分と重なり
何とか助けてあげたいと思うようになった。

『恒さん!萌をお風呂に入れてあげて』
『はいはい、萌お嬢様はお風呂が大好きだから楽ですね。
うちなんか男3人小さい頃はそりゃ暴れ回り
お風呂を入れるだけでもひと騒ぎでしたよ』
『でも今じゃ皆さん立派になられて自慢の息子さん達でしょ』
『まあ自慢なんてもんじゃないけど
どの子も心配しないでいられるから私は幸せですね』
『何か他人事みたいな言い方して』
『子供は成人したら自分の意思と責任で生活しなくちゃと
私は思うんですよ』
『萌も大きくなったら離れてしまうのかしら?
何となくそう考えると寂しくなるわね』
と雅子は今やっと手にいれた自由と豊かな暮らしに満足だったが
それは見えない綱を渡っているような不安を感じるのだった。

実は萌の誕生は偶然ではなかった。
それを知る者はこの世にたった一人しかいない。
それは綿密な計画とある秘密で覆われていた。

お稽古やお座敷の生活は嫌いではなかったが
何年経っても蔦乃屋という場所から抜けることが出来ない束縛に
いつしか言いようもない息苦しさを感じていた。
そして来る日も来る日もこの現実から抜け出す方法を考えた。
家出をしたらどうか?
もしそんなことをしたら荒波に飲み込まれるだけで
食べていく術も知らず結局舞い戻るのがせきの山だ。
雅子はもっと確実な手段で自立する方法を探していた。
多少自分が犠牲になってもこれから長い人生を人間らしい生活がしたかった。

そんなある日
櫻木という花街でも有名なお客様のお座敷に呼ばれた。
今までお名前だけで一度も顔を見たことがなかったが
お姉さん達の噂によれば超が付くお金持ちで
しかも独身だということだった。
ただ神経質なタイプで人を寄せつけないような冷たさがあるという。
最初はそんな人のお座敷なんて気が重いと思いながら行ってみると
通常お座敷は少なくても複数のお客様で接待用としての場所なのだが
驚いたことに櫻木の一人っきりの席でその静けさに雅子の背筋がぞくっとした。
『今晩は。雅子です。櫻木様ですよね』
『おお来たか、待ってたよ』
『初めまして。今日は有名な櫻木さんにお会いできると思って
わくわくして参りました』
『何が有名か分かったもんじゃないな』
『さあ一杯いかがですか?』
と噂通り櫻木には何か言いようもない威圧感があり
今まで感じたことのない緊張感が増して
動揺が分からないようにお酒をついだ。
『何で君を呼んだか分かるか?』
『いえ、実はちょっと不思議に思っていたのですが、どうしてです?』
『たぶん覚えていないと思うがこの前の植木市の時、野点があるだろう、
その時見かけてな』
『ああ、毎年恒例の野点前ですね。今年は私が担当してまして
あの時櫻木さんはどちらかにいらしたのですね』
『まあ、そんなところだがひと目みてな』
『あら嬉しい!あの時は見世物のようで嫌でしたが
こんな良い事もあるなんて夢のようですわ』
『もうちょっと近くに来ないか?
俺はあの時からずっとこの日を待ってたよ』
と櫻木は雅子の手を強引に引き寄せた。
『まあまあ今日はお酒飲んで楽しみましょう』
『ま、そうだな、それなら何か踊ってくれないか』
と櫻木はあからさまに渋い顔をした。
『分かりました。今お姉さんをお願いしてきますから、ちょっとお待ちくださいね』
踊りを踊るといことは三味線のお姉さんをお願いすることになり
少なくてもこの場の緊張感から解放される。
雅子はほっと胸を撫で下ろした。

そうこうしているうちに櫻木のお座敷は時間となり
次のお座敷へと急ぐ道すがらふとある考えが頭によぎった。

櫻木は雅子を気に入ってくれている。
うまく取り入って愛人ともなれば
この世界から抜け出せるチャンスになるかもしれない。
もし運命を選べるのなら櫻木という男を選ぶ。

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