花街の廊下の陰で囁く芸者達。
三味線の音が止まる一瞬、雅子が櫻木の子供を宿したという噂に
花が咲いた。
やがて花街中がその噂でもちきりになり
中でも二人は結婚するのかしないのか?
本当に櫻木の子供なのか
面白半分妬み半分の話で大騒ぎになっていた。
その当事者の雅子はそんな噂も耳に入らず
『蔦乃屋』の奥座敷で少しづつ成長するまだ見ぬ我が子を
愛おしむような生活をしていた。
「この子は私だけの子。夢の実現のために誰にも干渉されないで生まれてきてほしい」
と密かに思いながら穏やかな毎日を過ごしていた。
櫻木は数える程しか雅子に会い来なかった。
というのは雅子に情が移るのがまずいような気がしたからだ。
結婚をせがまれても面倒だと頑なに今の生活を守ることしか頭になかった。
雅子のほうもさほど会いたい相手でもなかったので
そのほうがかえって好都合だった。
それから数ヶ月経ったある日、
東京に初雪が降った深夜に玉のような女の子がこの世に誕生した。
櫻木から有り余る程の生活費を貰っていた女将はある計画を立てていた。
その計画とは櫻木からこの赤ん坊の一生分の養育費を貰い
置屋はこの際廃業して生まれ故郷に帰り
悠々自適な生活がしたいと思っていた。
赤ん坊が生まれてすぐに櫻木に連絡したところ
夜中にもかかわらず、すぐに行くと言っていきなり電話が切れた。
赤ん坊が生まれたタイミングが一番養育費の話しが有利になると思った女将は
病院の玄関で今か今かと櫻木を待っていた。
それから30分後、
あれほど身なりに隙のない櫻木が寝起き姿と思えるほど髪は乱れ
取る物も取り敢えずというような出で立ちで
産婦人科の病院に駆け付けてきた。
『櫻木さんお待ちしてました。
おめでとうございます。姫様誕生ですよ』
『おお女将、赤ん坊は大丈夫か?女の子か、それで五体満足だろ?』
『それはもう天使のような可愛らしいお嬢ちゃんですよ。それでね、、、』
と女将は養育費の話しを持ちかけたかったが
もどかしげに櫻木は赤ん坊のいる病室へと急いで行ってしまった。
『雅子』
『櫻木さんこんな格好ですみません』
と雅子は力を出産という大仕事に費やしてしまったせいか
声も切れぎれに言った。
『出産したばかりだ。何を遠慮するものか、そのまま横になってなさい』
と櫻木は雅子の隣の小さいベットを恐る恐る覗き込んだ。
『おお目鼻立ちが整った赤ん坊だ。
きっと大きくなったら男泣かせの美人になるぞ。間違いない』
と言いながら目の奥に熱いものを感じた。
今まで子供など欲しいとも思わなかったが
こうして目の前に自分の血を分けた子供を目にして
今まで感じた事のない感覚に襲われた。
『これから先のことだがこの子を見た瞬間に決意したよ。やっぱり女将の所じゃなくて
私が用意する家にこの子と住んでくれないか?』
雅子はその言葉を聞いてぞっとした。
一緒に住もうということなのか?
それだけは避けたいとずっと懸念してきたことだ。
『サーさんも一緒に住むということですか?』
と雅子は違ってほしいと心の中で叫びながら聞いた。
『いや、申し訳ないがこの前も言った通り結婚も同居もなしだ。その変わり生活の面倒はみるから安心してくれ』
『はい、サーさんのお考えのままで私は従います』
雅子はほんの僅かふっと息が漏れた。
その子は新春の夜に生まれたので
『萌』と名付けられた。
『サーさんそれで折り入ってご相談があるのですがね』
『女将それは俺の方だ、単刀直入に言おう、萌は俺が育てる、雅子も面倒みるよ』
『え?というと?』
『白山に小さいが俺名義の家があるからそこに雅子と萌に住んでもらいたい』
『じゃこの家から出るということですか?
私はどうなるのです。
今までどんな苦労したかお分かりだと思ってましたが
そんないきなり鳶にあぶらげみたなことをおっしゃって許されるとお思いですか?』
『女将、もうそんな言い方よしてくれないか。
誰もただで連れていくと言ってないだろう。
今まで雅子にかかった費用と世話になったお礼も含めて
充分なことをさせてもらうから承知してくれないだろうか』
女将は雅子が小さい頃から手塩にかけて育てたことが思い出され
急に涙がこぼれた。
『まあサーさんがそこまでおっしゃるのなら雅子と子供のために
移ることが最善でしょうね』
と涙が乾かないうちに
自分の思いが叶ったことに満足して思わず笑みを浮かべた。
そんなやりとりがあったことも知らず
雅子は退院して一旦は『蔦乃屋』戻ったが
すぐに白山の家へと引っ越しをした。
その引っ越し前夜、女将が珍しく豪華な食事を作ってくれた。
女将はどことなく寂しそうな顔をしていたが
雅子はこの家から解放されることが嬉しくてたまらなかった。
『蔦乃屋』での十数年の生活は辛さだけしか記憶になく
できることならここから逃げ出したい衝動が常に心の何処かにあった。
白山の家には庭があると聞いた。
そこに雪は積もるのだろうか?
これで私は自由になる。