💎自分が老化と思っている人達は、
若者たちに教えるべきことをするべきです。!
若い人達と、同じ土俵で勝負するのはやめて、まずは、
「仕事の勘所を伝授すべきです!」
勘所(かんどころ)というのは、自分は老化と思っている人で
どんな仕事の人にでも若い人には、マネのできない何かがあります。
年とともに積み重ねてきた経験や、
その経験に基づいて研ぎ澄まされたきたカンというものは、
何物にも代えがたい”財産”です。
加齢とともに体力は衰えても、どっこい経験がますます生きてくるのです。
若い人と同じ土俵で勝負するのはやめて、そこからはスッと身を退(ひ)いて、
年を重ねたなりの”ワザとカン”で「どんなもんだい!」と
若い人を引っ張り上げていく。
それが老いることへの大きな喜びに繋がるからです。
💎「年長者」に求められる「薫習」(くんじゅう)とは!
「超高齢化社会」という言葉には、マイナスのイメージがつきまとっています
ニュースを観れば、老々介護や、独居老人、貧困など、暗い話ばかり。
確かにそれが現実なのでしょうけど
そういった”苦しい老後”を見せられる若い人達は、
どうお思うでしょうか?
おそらく「年はとりたくないな!」と言うのが正直なところでしょう!
それはあまりいいこととは言えません!
年長者には、若い人たちに「あの人のように年齢を重ねたい」と
思ってもらう責任があるのです。
「薫習」とは、もともとは、衣をしまうときに防虫香という
いい香りのするお香を衣に染み込ませることを意味します。
季節が巡って、またその衣に袖を通すと本当に気持ちがいいものです。
そこから転じて、「あの人のようになりたい」と思う人のそばに
長年ついていると自然にそのようになってゆくというものです。
年長者には、まさに「薫習」が求められます。
高齢者を取り巻く現実は厳しいものがありますが、
一人一人が若い人たちに何か希望を与えられるような香り(オーラ)を
放つことは不可能ではないはずです。
💎「一病息災」の気持ち(感覚・フィーリング)で生きる!
健康は、全ての生命活動の基本です。
「無病息災」が理想と言えば理想と思います。
とはいえ、無病であるがゆえに健康を過信することが
無きにしもあらずです。
「自分は大丈夫、病気知らずだから大丈夫!」とばかりに
体に無理を強いてしまいがちです。
持病の一つもあった方が逆に健康に留意するという感覚に
なるのも人間です。
ちょっとした体調不良のある時は、決して無理をしないことです。
しかし、無理をしたいときは、無理に我慢するのも
逆効果となります。
自分のフィーリングを信じましょう!
心はゆったり、対応は素早く!ナンチャッテ!
💎人生も命も、すべて「レンタル」?
どういうこと?
私たちは、親を選んで生まれてくることはできません。
生れてくるときも場所も選べません。
ご先祖様からご縁をいただいてお預かりしているのが命です。
その命が営む人生で得たものは、何一つ自分のものではありません。
きれいに磨き上げてお返ししなければならないものです。
命もいつかはお返しすることを念頭に置きながら
少しでも輝くように大切にしていくのが本来の在り方です。
自分の人生は、「お返しする命の営み」であることを思えば、
心配事にいちいち煩わされている場合ではありません。
日々を大切に生き切りましょう!!
💎心配事の9割は起こらない?
どういうこと?
仕事でも日常でも「先を読むことが必要な場合は多々あります。
「先を読む目的は、心配することではなく、今の行動を決めること」に
あります。
決めることによって、自分で自分を得心させることにあるのです。
「こうなったら大変だから、今これをやっておく!」
「こう物事が動いていくのが望ましいから、今これをやっておく!」
という具合に、とにかく「いま」にひきつけることで
心から心配や不安を追い出してしまうのです。
もちろん思い通りに事が運ばないこともありますが、
うまくいかなくてもともと!
先の事を心配してもしょうがないので
「先の事は先の事。その時に考えればいい」くらいの気持ちで
いるのがちょうどいいかと思います。
実際「心配事の9割は起こらない」のですから!!
💎やれるだけのこと(できること)をやる!!!
人生というのはそれでいいのですから!!
どういうときに心に心配が生じるのでしょうか?
主に2つあると思います。
ひとつは、先の予測が立たない時です。
先がどうなるかわからないために、
目の前にあるやるべきことに手がつかないくらいに心配してしまうのです。
いうなれば「心配するために心配している」という状態になってしまうのです。
しかし、いくら考えても先の事は誰にもわかりません。
易者さんにもわかりません!
つまり、心配するだけ時間のムダと言うものなのです。
漠然と心配するのではなく、
「どうなると困ったことになるのか⁈」を具体的に考えて
ひとつひとつ手を打っていくしかないのです。
もう一つは、さぼったり、準備が十分でなかったりしたときに、
物事は、心配したような方向に転がって行きます。
心配するのではなく、今からでも遅くないという感覚になって、
やれること(できること)をやるだけなのです!
心配の種をつぶしていくと「なるようになるさ」という気持ちに
人間はなります。
やるだけのこと(できること)は、やったという安心感を持って、
先がどうなろうとそれを迎え入れることができるようになるのです。
💎「無理に白黒つけない!」という”妙策”!!!
グレーゾーンを大切にするという知恵です。
つまり、物事に「折り合いをつける」方法です。
私たちの日常にも、二者択一で考えない方がいい場合は、
たくさんあります。
「こっちを立てれば、あちらが立たず!」
「あっちを立てればこちらが立たず!」で
どちらを選んでも、心配の種は尽きません。
そうならないように
「こちらも立てて、あちらも立てる!」
「こちらのいいところと、あちらのいいところをとる!」と言うふうに
両方にいいようにはからえばいいのです。
そういう方式なら「白黒、はっきりしろ!」と怒る人もいなくなるはずです。
いい意味での、”あいまいさ”は、
むしろ誰かを傷つける心配を減らしてくれる妙策でもあるのです。
💎「失うものなどは何もない!」命があれば十分と言う感覚!
私たちはみんな手ぶらで生まれてきました。
服も着ていなければ、持ち物もなく文字通りの素っ裸!
あるのは命とその命の宿る肉体だけなのです。
もっと言えば、心はまっさらだし、
知識も経験も人間関係も何もかもがゼロです。
生きるとは、つまり、ゼロの上に様々なものを増やしていくことです。
ただ、死ぬときは、また、生まれたままの姿にもどり、
手ぶらで旅立っていきます。
この真理の上に立てば、
無くすと困るのは、命以外に何もないと思いませんか?
そうであったら、何かを失う事を恐れたり、心配する意味もありません。
もっとも人間には、一度手にしたものは、手放したくない習性があります。
これが厄介なのです!
(地位、権力、名声、友人、知人、お金、物)など
何かを失うかもしれない危機に直面したら、心の中でつぶやきましょう!
「人間本来無一文」(にんげんほんらいむいちもん)と!
人としての原点に返った時、
「失うものなど何もない、命があれば十分!」という
気持ちになれるはずです。
この悟りほど、「人を強くする」ものはないのです。
💎「孤独」と友達になることです!
私は、「孤独」と言うものを肯定的に捉えています。
周囲との交わりが一切絶たれる「孤立」とは違います。
「孤独に負けるもんか!」とばかりに活動的に行動しなくてもいいでは
ありませんか!
年を取ったら、孤独を楽しむことにこそ、重きを置くべきと考えています。
これも幸せのひとつの形です。
💎人格を極力、円(まる)くすることです!
近頃は、「キレやすい老人」「暴走老人」などと
称される年配者が少なくありません。
これは、とても残念な事です。
長く生きてきた中で、さまざまな事を経験して、
ちょっとやそっとの事では動じない「穏やかな人格」を
磨いていくのが人生だと思うのです。
年をとって怒りっぽくなるのは、実は恥ずかしいことなのです。
怒りというものは、人を自分の思い通りに動かそうとすることから
生じます。
そんなことを望む自体が間違いなのです。
自分の身一つだって、思い通りにいかないのに、
他人をコントロールするなんて、土台無理な話なのです。
もし、誰かが気にくわないことを言ったり、したりした時には
怒りを爆発させる前に、まず”深呼吸”をすることです。
そして、心の中で「ありがとさん」と唱えてみましょう!
怒りがお腹の周りで止まって、頭まで上がらずに気持ちが落ち着きます。
これを何度か繰り返すうちに怒りっぽくなくなってくるはずです。
50歳を過ぎたら怒りっぽさが作る「人格の角」を取って、
円く円くを心がけましょう!
いつも上機嫌でいることは、人間的成熟度の高い証なのですから!
💎「朝を楽しむ」ということは、年取った甲斐があるというものです!
「夜が弱くなってきた」ことを認めて、
夜は早じまいをして、早朝から頑張ればいいのです。
間違いなく朝には強くなりますから!!!
また、若い人に対抗するように夜遊びをしたり、二日酔いするほど
大酒をあおったりすることはやめたほうがいいのです。
でも、そういう感覚がなくなるのが老人と思っている次第です。
新たに獲得した朝の時間は、意外と使い出があるものです。
「朝の恵み」を得られるのは、年をとる甲斐のあることの一つなのですから!
💎人望のある人は、顔つきが違うのです!
何が気に入らないのか、いつも不機嫌そうにしている人がいます。
また、始終イライラして、周囲に怒鳴り散らしてばかりいる人もいます。
そんな人には、誰もができれば近づきたくないと思うものです。
不機嫌や怒りのとばっちりを受けて、
こちらの気分まで悪くなりますし、場の雰囲気まで暗くなってしまいます。
それでなくてもストレスの多い社会ですから
人間関係までギスギスする一方となるのです。
難しいことですが、
「何があっても”笑顔”を心がけることです。」
笑顔の周りには”人の花”が咲くのです。
もちろん怒るべき時はありますが、
何も怒鳴り散らすまでしなくてもいいではありませんか!
”深呼吸”のひとつでもすれば心が落ち着くはずです。
そうして穏やかな表情を取り戻して、怒ることをすればいいのです。
要は、怒り方をナイーブにすればいいのです!!
つまり、「ナイーブな怒り方」をすることです。
「ナイーブな怒り方」をすれば、自然と最後はお互い、笑顔になります。
なぜなら、「ナイーブな怒り方」というのは、
同じ人間だということが前提となっての怒り方だからです。
💎とにかく、どんなことに遭遇しても絶対に自分を嫌わないことです!
誰かと自分を比較している時にこの感情(自己嫌悪)が起きます。
人と照らし合わせることは、邪道な事です。
あるがままの自分が存在しているだけだからです!
こういうことは無意味な事でもあります。
なぜなら、自分を測る”物差し”が元来、万人の価値を決めるほど
正確にして絶対的なものではないからです。
たとえうまくいかないことがあっても
それによって自分自身の価値が上がったり、下がったりするものでは
ないからです。
自分と言う存在は、そのまんまの自分と言う事です。
そもそも自分で自分を嫌ってどうするのですか?
これほどみじめな事はありません!
自分を一番好きになってあげられるのは、自分自身なのですから....!
💎長生きしたい!と言うのは、目標にはなりえないことだと思います!
長生きは、結果であって、目的にはなりえないはずです。
今や「人生百年時代。」
しかし、大切なのは「長さ」ではないと思うのです。
何歳まで生きようが関係ありません。
いかに、「自分が充実した人生を送ったか!」と思えることが
肝心なことと思っています。
長生きと言うのは、あくまでも結果であって、生きる目標では
ないと思うのです。
たとえば、
「長生きするために、ひたすら健康にいいことだけを考えて、
暮らしてきた!」と言うのは、本末転倒では⁈
生きている間は、生きることだけを考え、
ましてや、人間にとって先々の事で確かな事はこれだけなのです。
「神様仏様が迎えに来る日は、確実に来る」という事です。
故に、一瞬一瞬に集中するしかないのです。
日々の密度を高めることによって、結果として、
何歳まで生きるかなど気にならなくなるのです。
自分にとって”充実”というフィーリングがそうさせるのです。
💎正しい失敗の忘れ方とは!
過去はどんなに悔やんでもやり直しはできません。
過去の自分をコントロールするのは不可能な事です。
しかし、過去を忘れてしまえばいい、捨ててしまえばいいという単純な
ものでもないのです。
正しい忘れ方、捨て方があるのです。
それが「1日を振り返る時間を持つ」ことです。
皆さんも毎日、何かしら「失敗したなぁ」と思う事があるのでは
ないでしょうか!
おそらく「なにもかもうまくいった」なんて日は皆無のはずです。
その大なり小なりの失敗を流さずに、あるいは、
「あ~嫌な1日だった」というようなマイナス方向でのおおざっぱな捉え方をして落ち込まずに、
💜”原因”だけをつかむことをするのです!!!💜
そうすれば、
次に同じような事に出くわしても、同じ失敗をしないで済みますし、
今の自分というものををコントロールすることが可能になるからです。
短い時間でいいので、寝る前に
「あの発言はまずかった。相手の気持ちを思いやらなくちゃ」とか
「あの失敗は、チェックの甘さが原因だった」などと
1日を振り返って見ることです。
これを積み重ねていけば、人生は、決して悪い方向にはいかないものなのです。
💎人生、戸惑った挙句に老後は迷う⁈というのも悪くはないのです!
私は、大学を出てサラリーマンをしました。
私の世代の人は、大半がサラリーマン初代と思います。
曾祖父(そうそふ)の代から、4代続いた老舗サラリーマンと言う人は、
そうはいないはずです。ここは弱い所です。
たとえば、警察官でも何でも祖父から親、親から子と
代々同じ職業についていると、職業観も地に足の着いた落ち着いたものに
なります。
昔の昔は、みんなそうでした。
下駄屋の息子は、はなから下駄屋になることが決まっていましたし、
煎餅やでも、農夫でも、稼業は代々受け継がれるものでした。
これは生きる上で大きな力だったのです。
祖父や親の生きざまから、
人生どの程度力を入れればいいのか?
どこで手を抜けばいいのか?
どこで急いでどこでゆっくりすればいいのか?と言ったことを
じっくり観察できます。
どんな人生が展開していくかが見えるんですね!
ところが、初代はそうはいきません。
我が人生の先がかいもく見えません。
やること、なすことがすべて初舞台です。
どぎまぎしながら見よう見まねで演ずるしかないのです。
二代目三代目なら、
物心つくかつかないころから、祖父や父親の舞台を見ているし、
芸にもふれていますから、いざ舞台に立った時も、
「そうか、父親は、こういう意味であの所作をやってたんだな!
あの時の言葉の意味はこうだったんだ」と、
腑に落ちることがあまたあるわけです。
それが芸を磨いていくことにもつながっていきます。
芸に詰まっても
「たしか父親もあのころ、壁にぶつかっていたみたいだな?
しばらく舞台から離れていたけど、それで一皮むけたんだったっけ!」と
父親の姿が道を照らしてもくれるのです。
仕事についている時と家庭にいる時の兼ね合いも見ることができます。
仕事と家庭のメリハリをきっちりつけるにはどうすればいいのか?
浮気は、どうすれば家庭に波風が立たないのか?といったことまで
感じ取れるのです。
お手本が身近にあることのメリットは、計り知れない程大きいわけです。
私の場合は、親は、家業をしていましたので、家業を継ぐという感覚で
いました、物心つくまでは!
今思うと、大学生の4年間に気づき始めていたのだと今になって思っています。つまり、父親とひとつ屋根の下で生活していませんので、
父親からは何もプラスになることは、学んでいません。
というより、学べなかったのです。
ただ、小学生の時に、休みの日とか学校から帰ってきては、手伝いを
させられていた記憶があります。
やはり、私は、母から教わっていたのです!知らないうちに!
私は男ですけど、母は、駄菓子屋兼今でいうコンビニまがいの店での
仕事(商売)をしていたので、その時に自然と身についたのだと思っています。
要は、近所の人達、あるいは私の友人たちがよく来ていました。
その対応をしている母を見ていて自然と身についていたと今は思っています。
母は、ゴットファーザーではなくゴットマザーのような女性でした。
あだ名がありました。それは「こって牛」というあだ名でした。
いわゆる、太めの女性だったという事です。
この折に、今だに記憶に残っているのですが、
京町小学校から南薫小学校に転校しました。3年生の初めでした。
とても寂しい思いをしたのを覚えています。ところが、
転校して間もなくして、京町小学校の友達が数人遊びに来てくれたのです。
この時は、とてもうれしかったことを覚えています。
家業の引継ぎという事で育てられていたのに、
大学時代に私なりに時代の変化を読み取っていたのだと思います。
それで、サラリーマン稼業をすることになったと思っています。
とにかくサラリーマン初代でもありますし、父親とは、
ひとつ屋根の下で暮らしてもいませんので、家庭に対しても
見本はなかったという事になります。
故に、すべて初代だったのです。
初代は苦しいというよりも、”難しい”というのが本音ですよね!
しかし、初代の悲哀、困難さを嘆いていても始まりません人生というものは!
成り上がりは、成り上がりなりに人生を切り開いていくしかないという事です。これが時代の移り変わりということでは?
迷いながら生きたって、さもしく生きたって、足跡は確かに刻まれます。
開き直ってみると、お手本がない分だけ自由さがないわけでもないのです。
今は、サラリーマン二代目が多いのでは?
インターネット&デジタル社会でこれから変化していくのだと思いますが、
まだまだ三代目まで続くのではないでしょうか⁈
💜皆さんに、幸あれ~!!!💜
💎1960年代は、最高血圧「年齢+90」以下なら正常だったのです!
化学的根拠の信頼度が低い、現代の血圧基準値「140/90」にこだわると
危険性あり?
「148/94」が平均値で健康な人は存在しています。
病院で血圧測っている人で、「150」の人でも平気にしています。
何か、不自然だなあと感じることもありました。
つまり、現在の高血圧の設定値が低すぎるということでは?
70代で「150~160」
80代で「160~170」としていた数値を
「140/90」以上を高血圧としました。
そして、2000年には、日本高血圧学会は、
目標数値を「130/85」にまで引き下げをしました。
この時、「130」で大騒ぎしていた記憶があります。
2003年になると
日本高血圧学会は、年齢別数値を撤廃しました。
つまり、何歳だろうが一律に
「140/90」以上で降圧剤を処方するとしました。
2014年には、血圧上限値を「130/85」以上から「140/90」以上に
しました。
後期高齢者に対しては、「150/90」としました。
「140/90」という数字の扱い方は、
要するに、
上が140、下が90を超えると
・太っていようが、
・痩せていようが、
・背が高かろうが
・背が低かろうが
高血圧とみなして、薬を処方するというパターンを作ったのです。
これが今の高血圧事情という事です。
これ、また何らかの事由で、数字が変わる⁈
人の体を何と思っているの?ナンチャッテ!!
何を根拠に変えている?科学的根拠は?
言い換えれば、ころころ数値を変えても影響ないということなのでは?
単なる商売根性丸出し!
💜目安としては、💜
①上下の血圧差が、「40~60」の間に収まっているなら
気にする必要はないという事です。
②コンスタントに運動をすれば、血圧は下がるものです。
それでも血圧が下がらない場合には、
薬を飲むという事をしても遅くはないという事です。