なぜ真理探究の綱渡りを降りられないのか?

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哲学と宗教の違い

それは、
哲学は真理を目指して思索という綱渡りを続けていく行為。
宗教はその途中で綱渡りから飛び降りる行為。

という例えがある。

これは哲学の本で紹介されていた例えだ。
なので、
「思索の綱渡りを途中で投げ出してしまう宗教はいけない。それは怠慢であり妥協だ。
理性を途切れさせない哲学こそが、真理を模索するための確かな方法なのだ。」
というような含みがあるように受け取れる。


また、
「科学的根拠がないからと信じられない」という人もいる。
証明されていない話を信じてはいけないのではないか、と。


これらの主張の背後に共通するものは、
「だってそれを信じた結果、もし間違っていたら?」という恐れだ。




ここで、こんな言葉を紹介したい。


「勇気は恐れの欠如ではなく、
恐れよりも大事なものがあるという判断である」


つまり、ここで私が主張したいことは、

「信じる勇気」を持つべきである

ということだ。




私自身も長らく、ああでもないこうでもないと、思索の綱渡りを続けてきたから言うのだが、
この綱渡りのゴールは、いくらそのロープを歩いても見えない。

綱渡りの先に広がっているはずの「真理」という名の景色は、いくら綱渡りを続けていても一向に見えてこないのだ。


偉大な哲学者や思想家は歴史上に過去何人もいて、
みな究極の真理を目指してこの思索の綱渡りを続けてきた。

しかしその思索のロープを渡りきって、
その先の景色を教えてくれた人は未だかつて1人もいない。
誰一人、哲学者として真理に到達した人間はいない。

また、哲学という方法ではなく、
科学の力を使って真理に辿り着こうとした人たちもいる。
しかし科学者の中にも、科学という強力な手法を持ってしても、
未だかつて思索の綱渡りを渡り終えた者はいない。


彼らはもちろんこの私などよりも素晴らしく優れた頭脳の持ち主であった。
それでも、誰も思索の綱渡りの先の、
真理という名の景色には到達していないのだ。

まず認識すべきこのような事実がある。




過去何人もの哲学者、科学者が真理を追い求めてきたが、誰も真理の綱渡りのその先へと到達できた者はいない。

この重要な事実がある一方で、
「これが真理だ」と100%の完全な確信を伴って、自らの見た景色を伝えている人たちがいる。
彼らは宗教家と呼ばれる。

そして彼らは誰一人、思索の綱を渡りきってはいない。
みな綱渡りの途中で、飛び降りた人たちだ。

抜群に優秀な哲学者、科学者たちが、誰一人真理を見出せなかったのに対して、
「これが真理である」と確信持って主張する宗教家は、過去の歴史を見渡せば何人でも見つけることができる。



そして、これらを踏まえて、私が目を向けてほしいと思うことは、
自分の人生は一度きりだという事実である。

例えば、
あなたがあなたの人生という名の船を操縦している船長で、その船は沈みかかっている。
他に船員は誰もいない。あなたしかいない。
あなたが何もしなければ、ただその船は沈んでいく。

「何で沈むんだ!」
「こんなの聞いてない!」
「なぜ誰も助けに来ないんだ、こんなことはおかしい!」
「神さまどうか助けて下さい!」

あなたが何を叫ぼうが、唯一の船員であるあなたが行動しなければ、ただ船は沈んでいくだけだ。
それははっきりしている。

あなたが舵を手に取りその手を動かせば、沈没を逃れられるかもしれない。
しかしその時に、
「左に舵を切れとあの宗教家が言っていたが、なぜそうすることで助かれるのか、科学的納得のいく説明が欲しい。もし助かる道が右であったらどうするのか。確証がなければそんなおそろしいことはしたくない」などと言っていたとしたら、

それで、沈んでしまっても、あなたは本当にいいのか?

何もしないまま、周りを、状況を、世界を呪って叫び散らしたまま、
それでもあなたが何もしなければ、あなたの人生というその船はズブズブと音を立てて沈んでいくだけだ。

あなたは本当に、それでいいのか?
本当に、本当に、それでいいのか?



私は嫌だ。

だからある時点で、綱渡りを降りた。


このまま綱渡りを続けても、自分が生きている間に真理には辿り着かないということが分かったから。

綱をある程度渡ることは大切で、おそらく必要なことでさえある。
いきなり思索の綱渡りなしに、飛び降りることはおすすめしない。

それでもどこかで降りる必要がある。
私はそう思う。



これは論理ではない。

論理の綱渡りを一歩一歩続けている限り、
生きている間にはおそらく人生の答えには辿り着かない。

過去の偉大な哲学者たちが誰一人辿り着けなかったのだ。
自分の貴重な有限の人生をベットして、そんな無謀な勝負に賭けてみる気は、私にはない。


綱渡りを続けるというのなら、真理には辿り着けず綱を渡っている途中で自分の人生は終わる。
それでもいいと言うのなら、それを承知で綱渡りを続ければいい。
でも私は嫌だ。

私が求める、心の底から納得できる人生の答えを見つけるためには、
論理的飛躍がどうしても必要だった。
ジャンプが必要だった。
綱から飛び降りる必要があった。


さて、綱渡りを続ける者と、飛び降りる者
どちらが合理的だろうか?

この問いかけに正解はない。
各々の判断があるだけだ。
その判断は、あなたが自分の人生の中で示していってほしい。



飛び降りる決心がつかずに綱渡りを続けている、かつての私の仲間たちに、もう一度冒頭の言葉を贈りたい。


「勇気は恐れの欠如ではなく、
恐れよりも大事なものがあるという判断である」




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