その無機質な瞳に見つめられ、美咲の背中に冷たい汗が伝う。
「先生、時間はもう止まったままじゃいられないんですよ」
その言葉が引き金となったかのように、周囲の白い壁が、まるで古い写真が燃えるように端からボロボロと崩れ始めた。
剥がれ落ちた壁の向こう側に現れたのは、病院の廊下ではない。
それは、美咲がかつて17年間過ごした、あの夜の街の喧騒だった。
(どうして、ここが……?)
極彩色のネオン、重なり合うグラスの音、そして安っぽい香水の匂い。
混乱する美咲の前に、一人の女性が立っていた。
それは、かつて同じ店で競い合っていた「見えないライバル」であり、同時に鏡に映った自分自身のようにも見えた。
「美咲、また『正論』で相手を追い詰めているの?」ライバルは、美咲がカウンセリングで活用している心理学のフレームワークをあざ笑うかのように言葉を続けた。
「フレーミング効果なんて、結局は言い換えのペテンじゃない。
あなたが健人を『愛している』と思っているその枠組み自体が、誰かに植え付けられたものだとしたら?」
美咲の頭の中で、健人の母親の罵声と、電話越しに聞いた健人の悲鳴が混ざり合う。
カクテルパーティー効果によって、自分の都合の良い情報だけを拾い集めていたのは、私の方だったのか?
彼の「仕事が忙しい」という言葉を、私はどういう枠組みで捉えていた?
その時、雑踏の中から一人の男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
健人だ。
しかし、その足取りは以前の優しかった彼のものではない。
まるで何かに操られているかのように、ぎこちなく、視点は定まっていない。
「美咲…… DMで言ったよね。……『絡まった気持ち』をほどいてほしいって」
健人の口から漏れたのは、視聴者が美咲に送ったはずの相談文だった。
美咲は戦慄した。
彼が私の活動を知っていただけではない。
彼は、私の「救いを求めるクライアント」そのものになりすましていたのだ。
「健人くん、あなたは何を……」美咲が手を伸ばそうとした瞬間、健人の姿がノイズのように歪み、いくつもの姿に分裂した。
「タイパ重視の恋」「依存からの脱却」「復縁の魔法」……。
彼らが一斉に、美咲がこれまでにブログや動画で発信してきた「タイトルの言葉」を唱え始める。
(私が彼を救おうとしていたんじゃない。私が、自分の理論を証明するために、彼を『悩める弱者』という枠に閉じ込めていただけなの?)
激しい自己嫌悪が、美咲を飲み込もうとする。
その時、足元の床が抜け、美咲は暗闇へと落下した。落ちていく意識の中で、美咲のスマートフォンが最後の一撃を放つように震えた。
画面に表示されたのは、健人からの最後のメッセージ。
『あの日、僕が事故に遭ったのは本当だよ。でも、死んだのは僕じゃない。……君の中の「僕」が、死んだんだ』
+(第5話・最終話へ続く)