ICU(集中治療室)にいるはずの健人から、着信。
液晶画面に踊る「健人」の二文字を、美咲は信じられない思いで見つめた。
「……もしもし?」
震える指で通話ボタンをスライドさせる。
背後では、健人の母が警察官と何かを激しく言い合っている声が響いているが、美咲の耳には何も入ってこない。
どれほど喧騒の中にいても、自分にとって重要な「音」だけが、鋭く意識を支配する。
『……美咲? 助けて、美咲』
電話の向こうから聞こえてきたのは、紛れもない健人の声だった。
しかし、その声は病院のベッドから発せられているにしては、あまりにもはっきりと、そして何かに怯えているように聞こえた。
「健人くん!? 今、どこにいるの? お母さんが、あなたが事故に遭ってICUにいるって……」
『母さん? ……ああ、そうか。やっぱり母さんも「あっち」側なんだね』
健人の言葉は支離滅裂だった。
美咲は、かつて17年間身を置いた夜の世界で、嘘をつく人間の特有の「呼吸」を何度も聞いてきた。
だが、今の健人の声からは、嘘の気配は微塵も感じられない。
あるのは、純粋な、剥き出しの「恐怖」だけだ。
『美咲、よく聞いて。君が今見ている「僕の母さん」は、本物じゃないかもしれない。
フレーミング効果って、君が教えてくれたよね。
物事を見る枠組みを変えれば、真実は変わるって。
今、君が見ている景色を疑って。……僕は、事故になんて遭ってない』
「え……?」
電話が、プツリと切れた。
顔を上げると、目の前にいたはずの健人の母親と警察官の姿が、忽然と消えていた。
そこにあるのは、無機質な白い廊下と、しんとした静寂。
(……私は、何を見ていたの?)
美咲は、自分の「カウンセラー」としての理性が崩壊していくのを感じた。
クライアントの「絡まった気持ち」をほどくのが仕事なのに、自分の人生の糸が、かつてないほど複雑に、禍々しく絡まり始めている。
ふと、自分の手に違和感を覚えた。
持っていたはずのスマートフォンが、いつの間にか、古びた「メモ帳」に変わっている。
そこには、美咲自身の筆跡で、見たこともない数字の羅列が書き込まれていた。
「……これ、私の実家の電話番号?」
それは、先ほど健人の母が「免許証と一緒にあった」と言っていたメモそのものだった。
なぜ、私がこれを持っているの?
混乱する美咲の視界の端で、ICUの扉がゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、白衣を着た医師ではない。
それは、以前の画像生成セッションで何度も修正を重ねて作り上げた、あの「ブランドマスコット」のキャラクターだった。
キャラクターは、無表情なまま美咲を見つめ、こう告げた。
「先生、タイパ(タイムパフォーマンス)を気にするなら、そろそろ『正解』を選ばないと。時間は、もう止まったままじゃいられないんですよ」
(第4話へ続く)