暗闇の中を落下しながら、美咲の耳にはかつて夜の街で聞いた喧騒と、今の仕事で向き合っているクライアントたちの「助けて」という声が、濁流のように混ざり合って響いていた。
(私は、誰を救いたかったんだろう)
暗闇の底に着いたとき、そこは静まり返った自分のカウンセリングルームだった。
デスクの上には、書きかけのブログ記事が並んでいる。タイトルは『彼から「もう一度」と言わせる魔法』
美咲はその文字を見て、初めて自嘲気味に笑った。
魔法なんて、どこにもなかった。
あったのは、相手を自分の思い通りに動かそうとする「コントロール欲求」という名の、あまりにも独りよがりな執着だけだったのだ。
「……もう、いいよ」
美咲が小さく呟くと、部屋の隅に置かれた大きな時計の針が、ガチリと音を立てて逆回転を始めた。
17年間の接客業で培った「相手の顔色を読む技術」も、心理学を学んで身につけた「相手を分析する理論」も、すべてがパズルのピースのようにバラバラに崩れていく。
その破片の中に、一瞬だけ、本当の健人の笑顔が見えた気がした。
マッチングアプリの画面越しでも、心理学のフレームワーク(フレーミング効果)越しでもない、ただの不器用な一人の男性としての彼。
彼は、美咲に「救われたかった」のではなく、ただ「隣にいてほしかった」だけだったのかもしれない。
美咲は、鞄の奥底に眠っていたスマートフォンの電源を再び入れた。
DMには、相変わらず「絡まった気持ちをほどいてほしい」というメッセージが届いている。
しかし、今の美咲の指は、以前のような「正解」を教えるための冷たい動きはしなかった。
彼女は、自分自身の肩書きや、凝り固まったブランディング(おかゆ先生)を脱ぎ捨て、一人の「美咲」としてキーボードを叩き始めた。修飾語(形容詞や副詞)を徹底的に削ぎ落とし、ただ心の動きを伝える動詞を繋いでいく。
『今、私は止まっていた時計を、自分の手で壊しました』
それは、復縁のテクニックでも、誰かを操るための心理術でもない。
自分の弱さを認め、相手の不在を受け入れるという、本当の意味での「自立」の宣言だった。
不意に、窓の外から朝焼けが差し込む。
かつてタイパ(タイムパフォーマンス)を気にして焦っていた自分が嘘のように、今の美咲は、流れる時間をただ静かに受け止めていた。
その時、手元のスマートフォンが短く震えた。
それは、死んだはずの彼からの着信でも、謎のメッセージでもなかった。
『……おはよう。久しぶりに、普通に話さない?』
それは、美咲が「魔法」を捨てた瞬間に届いた、ただの「日常」という名の奇跡だった。
絡まった糸は、ほどこうとすればするほど強く締まる。
けれど、握りしめていた手を離せば、それはただの「一本の線」に戻るのだ。
美咲は、ゆっくりと立ち上がり、止まったままだった壁の時計を、今の時刻へと合わせた。
-END-
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それでは、またお会いしましょう。
おかゆ。