「何もなかった時間」なんて、 存在しなかった
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コラム
翌朝、教室はいつも通りだった。
机を引く音、誰かの笑い声、
チャイム前のざわめき。
凪は席に着きながら、
昨日の夕焼けを思い出していた。
思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる。
——何を言いかけたんだろう。
悠真は、少し離れた席でノートを開いている。
視線は合わない。
けれど、気配だけは昨日より近い。
それが、余計に落ち着かなかった。
「おはよ」
不意に、悠真の声がした。
低くて、短くて、いつも通り。
凪は一拍遅れて顔を上げる。
「……おはよう」
それだけ。
それだけなのに、
胸の奥がわずかに波打つ。
何も変わっていない。
制服も、距離も、言葉の数も。
でも、凪は知っている。
昨日の橋の上で、
「何もなかった時間」なんて、
存在しなかったことを。
悠真が、椅子を引く。
その音に、
凪の肩がほんの少しだけ強張る。
——期待してはいけない。
そう思うほど、意識してしまう。
授業が始まる直前、
悠真が消しゴムを落とした。
凪の足元に転がってくる。
拾い上げて、差し出す。
指先が、かすかに触れた。
ほんの一瞬。
昨日よりも、短い一瞬。
それでも、凪の心ははっきり揺れた。
悠真は「ありがとう」とだけ言って、
視線を外す。
それ以上、何も言わない。
——やっぱり、言葉は出ない。
けれど凪は思う。
この沈黙は、もう昨日とは違う。
始まっていないのに、
戻れなくなった場所に、二人は立っている。
チャイムが鳴るまで、まだ少し時間があった。
教室のざわめきは、
朝の光に溶けて、どこか遠い。
凪は、机の端に置いた指先に意識を向ける。
昨日、橋の上で感じた距離と、
今、この机と机のあいだの距離が、
なぜか重なって見えた。
——近いのに、届かない。
悠真のペンが、また一瞬止まる。
何かを書き間違えたわけじゃない。
ただ、胸の奥で引っかかった感覚を、
言葉にできないまま飲み込んだだけだ。
凪はふと、視線を落とす。
悠真のほうを見るつもりはなかった。
それでも、同じ空間にいるという事実だけで、
心が少しだけ忙しくなる。
昨日の夕焼けは、もうここにはない。
それなのに、
二人の間には、まだ色が残っている。
チャイムが鳴る。
日常が、始まる音。
凪は前を向く。
悠真も、
何事もなかったようにペンを走らせる。
——それでいい。
今は、まだ。
言葉にならなかったものが、
消えていないと知っているだけで、
この朝は、昨日より少しだけ違っていた。