新緑の風が、校庭の木々をそよがせていた。
柚(ゆず)は窓辺に肘をついて、
その景色をぼんやりと眺めていた。
春が来るたびに、
時間が少しずつ遠ざかっていくような気がする。
放課後の音楽室。
ピアノのふたが開き、
懐かしい旋律が流れていた。
「またその曲……」
柚は笑いながら扉のところに立っていた。
「うん。弾くと落ち着くんだ。」
新(あらた)は鍵盤に視線を落としたまま、
少しだけ笑った。
同じフレーズを何度も繰り返す音。
どこか切なくて、風のように心に染みる。
「もうすぐ、ピアノコンクールなんだよね?」
しばらく沈黙が流れたあと、
新がぽつりとつぶやいた。
「柚。俺、卒業したら東京の音楽学校に行く。」
「えっ?……そう、なの……。」
「ちゃんと伝えたくて。」
笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
心の中で何かがきゅっと縮まった。
「でもね、柚。俺、思うんだ。」
新はピアノの上に手を置いた。
「“信頼”って、
距離があっても続くものなんだって。」
「距離があっても……?」
「うん。誰かを信じるって、
“いま同じ場所にいる”ってことじゃない。
“離れていても、
想いが風みたいに届く”って
信じられることだと思う。」
柚はその言葉を静かに飲み込んだ。
(風みたいに……)
窓の外では、
木々の葉が光を受けて揺れていた。
その夜、柚はノートを開いた。
ページの一番上に書いたのは、たった一行。
「信じるって、風みたいなもの。」
柚はペンを置いて、そっと窓を開けた。
夜の風がカーテンを揺らし、部屋に入り込む。
(きっと、この風の向こうで、新も頑張ってるんだ。)
少しだけ胸が熱くなった。
数日後、ピアノコンクールの日。
柚は観客席の隅に座っていた。
ステージに立つ新は、
ライトの中で背筋を伸ばし、
穏やかな表情で鍵盤に指を置いた。
音が流れた瞬間、空気が変わった。
やさしくて、
力強くて、
どこか懐かしい旋律。
(この音……“風”の音だ。)
柚は目を閉じた。
音が心をなでるように通り抜けていく。
そして、
最後の音が消えたとき、
静寂の中で、
小さな拍手が波のように広がった。
帰り道。
春の風が桜を揺らしている。
柚は心の中で、そっとつぶやいた。
「風になる約束、ちゃんと届いたよ。」
見上げた空に、淡い雲が流れていった。
誰かを信じることは、
相手を束縛することではなく、
その人の自由を信じ、
風のように見守ること。
目に見えなくても、
風のように流れる想いは、
きっと届いている。