放課後の音楽室は、夕陽の色で満たされていた。
窓から差し込む光が、古びたピアノの鍵盤を淡く照らしている。
その前に座っているのは、新(あらた)くん。
転校してきて、まだ一週間。
クラスではほとんど話したことがない。
けれど、その旋律だけは、なぜかまっすぐに胸に届いてきた。
柚(ゆず)は廊下のドアの隙間から、そっとその音を聴いていた。
どこか懐かしくて、泣きたくなるような音。
「その曲、悲しいね」
気づけば、思わず声に出していた。
新くんが振り返る。
驚いたように目を見開き、そして、少しだけ笑った。
「……気づいたの、君が初めてだ」
その言葉に、心がふわりと浮いた。
誰にも分かってもらえなかった“感じすぎる自分”が、
ほんの少し報われた気がした。
柚は、昔から人の顔色ばかりうかがってきた。
友達が少し沈んだ顔をすれば、「自分のせいかな」と不安になる。
グループの空気が重くなれば、なんとか明るくしようと笑ってしまう。
だから、家に帰るころにはぐったりと疲れていた。
「私って、変なのかな」
そんなふうに思っていたある日、新くんが転校してきた。
授業中でも堂々と発言して、笑われても気にしない。
休み時間には窓の外を眺めていて、
誰かに話しかけられても淡々としている。
――なんで、あんなに平気でいられるんだろう。
柚は、少しだけ羨ましかった。
その日、廊下を歩いていると、音楽室からピアノの音が聞こえた。
まるで風の中で光が揺れているみたいな音。
吸い寄せられるように足が止まり、気づけばドアの前に立っていた。
そして、あの言葉を口にしてしまったのだ。
「悲しい曲、好きなんだ」
「うん。悲しいけど、ちゃんと終わるから」
「終わる?」
「うん。音ってね、響いて、やがて消える。
でも、消えるってことは、ちゃんと届いたってことなんだ」
新くんの言葉が、夕陽の中でゆっくり溶けていった。
その言葉を聞いた瞬間、柚の胸がじんわりと温かくなった。
彼は、ただ無神経な人じゃなかった。
むしろ誰よりも“感じ取っている”人なのかもしれない。
チャイムが鳴り、校舎の外からは部活動の声が響く。
新くんは立ち上がり、楽譜を閉じて笑った。
「君も、音が見えるタイプだね」
「……音が、見える?」
「うん。普通の人には見えないけど、君は感じてる。
人の言葉の“温度”とか、“間”とか。
そういうの、ちゃんと聴ける人なんだと思う」
柚は何も言えなかった。
でも、胸の奥のどこかが確かに震えた。
“感じすぎる自分”が、初めて肯定された瞬間だった。
夕陽が沈み、音楽室の影が長く伸びる。
柚は小さく息を吸って言った。
「ねぇ、新くん」
「ん?」
「その曲……もう一回聴かせてくれる?」
「いいよ」
彼の指が鍵盤に触れた。
静かな音が、空気の粒を震わせて、心の奥まで染み込んでいく。
その音を聴きながら、柚はふと気づいた。
――繊細であることは、悪いことじゃない。
誰よりも深く感じられることは、ちゃんと“生きている証”なんだ。
窓の外では、茜色の空が夜に溶けていく。
その中で、二人の心が、確かに同じリズムで揺れていた。