母との長年の葛藤をやっと終えられて、
あらゆることが平和になってきた。
私の内側がすごくおだやかで落ち着いている。
自分の内側がこんなに静かなのって初めて。
それを感じられるようになって、
いかに今までが荒々し過ぎたのかに気づく。
私はそういったことがよくある。
過ぎ去って振り返ってみると、
自分が思っているより大変な状況なのに、
その「大変な状況」を当時はほぼ自覚できていなくて、
ストップしたりゆっくりペースにしたりすることができなかった。
何かに追われるように生きていた。
何に追われていたんだろう?
エゴが作り上げた理想の自分 だと思う。
私は「完璧な人」にならないといけないと思っていた。
そのために努力が必要で、我慢してでもやり遂げないといけないと
思っていた。
愛されないのは、その努力が足りないから、と。
努力や我慢を止めてしまうと、もう存在する意味がない、というくらい
「完璧な人」を目指すことは重要なことだった。
でも、なれないんですよね。完璧な人って。
頭で分かっていても腑に落ちたのは40代になってからだったと思う。
完璧でなくても
「愛」を受け取っている人や、
「愛」を自家発電できている人を見て、
「完璧」のイメージが変わってきた。
「私」を持っている人、
「私」を許容している人、
「私」をゆるぎなく信じている人、
「私」が「自然な私」と繋がっている人が
本当の意味で「完璧」と思った。
ふと、母も「エゴの完璧」を目指している人だな、と思う。
あれもしてこれもして、と年中忙しくしている。
休むことを知らない。
きっと休むことに罪悪感があるのだろうと思う。
身体もよく壊す。
そんな痛い気な母を誰も求めていないのに・・・
それでも母は走り続ける。
「エゴ」の強力さを感じる。
「エゴ」が解けると少しずつ楽になってくる。
ただ、数限りなくエゴは発生するので、
「無くす」ことを目指すのではなく、
「気づく」ということを大切にしている。
気づけば、そのエゴを終わりにできたり、
終わりにできないまでも、扱いに変化をつけることができる。
「気づく」って本当に大切。
気づかなければ、「無い」と同じだから。
気づき続けることで、たくさんの場面でいろいろな瞬間のエゴを
解かしていく手がかりをつかみやすくなる。
そんなことを繰り返していると、
「本当の本当の答え」のようなものに出会うことがあって、
そのときに「このエゴを解きたかったんだ!」と
やっとたどりつけたような感じになる。
エゴは何重にも折り重なって存在している。
分かりやすいエゴから、ものすごく小さいエゴまで。
丁寧に扱っていくと、微細なエゴにも気づけるようになる。
私の場合、
解けて初めて「このエゴを解きたかった!」と気づくことばかりだ。
どのエゴを解きたいか?という事前の目標や指針のようなものは
設定しにくい。
自分らしくいられないときは、何かしらのエゴがいる。
そのエゴをじっと見つめて、気づき続けることで、
「解けていく」ことが続き、
あるとき、奥の奥に潜んでいる微細なエゴが解けていく。
それを繰り返して、どんどん自由な感覚を手に入れていく。
どこまでも自由になりたいし、
どこまでも軽い自分でいたい。