実は、まだワクチンしてないんです。
後ろめたくはありますが、かといって今の状況でワクチンをするなら、変異種にもっと対抗できるワクチンを待ちたいというのが本音ですね。
積極的にワクチン推進派でもなければ、反ワクチン派でもなく、「義務化されたらそりゃするけど・・・」というスタンスなんですよね。
もともと社交的ではないし、満員電車にも乗らないし・・・。プライベートで人と会うのは、前回のAさん送別会くらいでした。
そもそもで、最初からワクチンより先に「治療法の確立」か「効き目のある薬」が開発されると思っていたので、それがワクチンの方が先にできちゃった、なんてちょっと想定外でしたよねー。
治療薬の方が先にできていれば、こんなワクチン派・反対派で2つに割れることもなかっただろうに。
(世論が真っ二つに割れちゃう現象がある時は世論誘導に注意した方がいい、とよく言われますので、そこも気にした方がいいかもしれないね)
ワクチンに関しては、ニュートラルに冷静に状況判断をした方がいいのかなという気はしてます。
抗体さえできていれば、怖がることはない。
最初にどの程度の衝撃なのか、知ってさえいれば、それに耐えられる力は備わっている。
不意打ちに弱いだけ・・・
ボクサーは、想定している範囲の強度のパンチを受けたくらいでは倒れない。
(はじめの一歩情報)
受けたことのない衝撃を食らった時、そして不意打ちを食らった時にダメージを負うわけです。
あらゆる最悪を想定することができれば、体はそれに対応することができるはず。
ただ、今回のコロナは、未知のウイルスだった・・・。しかも想定外の方向に変異する。
愛みたいですよね!
いきなりなんじゃいと思われた方、多いでしょう(笑)
愛ってある時突然来ちゃうじゃないですか。
想定外の時に想定外の相手に。
最初は「いやいや、そんなわけない、惚れてなんかないもん」と自分の中で否定しつつ、だんだんと「あれれ?あの人のことばっかり考えてる、あの人のことで頭がいっぱい。どうしちやったのかしら、こんなの初めて」とうろたえてしまうわけです。
初恋ってそういうもんじゃない?
それで、その初恋にどう対処したらいいのか分からなくて、「私のことじゃないんだけどー」なんて他人に相談したりする。恋愛マニュアルを読みふけったりする。
だけど、対処法なんてどこにも書いてない。私の場合はどうなのかしら、私だけが変なのかしら・・・と戸惑ってしまう。
統計取ってるのか知らないけど、「愛の致死率」というのも知りたいところですよねー。
恋愛がらみで命を落とすこともある。結構その場合の致死率って実は高いかもしれない。
愛の抗体さえ持っていれば、一度経験したことならば、冷静に判断し対処できることもある。
そこから発生する痛みや苦しみも、経験済みで想定内。
だけど、それが初恋だったら・・・想定外の苦しみにまるで「業火に焼かれている」かのように感じてしまう。素っ裸にされ、全身を覆う皮まではがされて、どこを触られても、ちょっと優しくなでられただけで、激しい痛みにもがき苦しむ。
極端に繊細になって、敏感になっていて、普段なら気にならない刺激に対しても大げさに反応してしまって・・・普通の日常生活ではなくなってしまうんですよね。
そこで自分の弱さを思い知る。
弱くてズルい人ほど、愛を目の前にすると、まっすぐ立っていられなくなる。
この痛みから解放してくれるならなんでもいいと藁にも縋る思いで、占いをはしごしちゃったりする。
他人のアドバイスを求めては、言われたくなかった言葉を聞き、さらに混乱していく。
まぁ、落ち着きたまえ。
それが愛というものだよ。
愛に形はない、なんて言いますが、あるんです。形。
私はその形を知ってはいるが、それを教えてあげたのは、私が愛した人にだけでした。もう誰にも言う気はありません。
愛に法則はない、なんて言いますが、あるんです。法則。
私はその法則を知ってはいるが、それを教えてあげた相手には理解できなかったようです。
愛の抗体を持ってる人間には見えるもの。
抗体を持っていない人は、形もなく法則もない、訳の分からないウイルスにうろたえる。
その法則を知っていれば、古典文学や芸術作品の中に、その痕跡を容易に発見できる。
「あぁ、この作者もあの愛のウイルスに侵されて、それに打ち勝った経験があるのだな」と分かる。愛の抗体を持っている人は、それが認識できるのです。
愛を知っているか知らないか。
愛にワクチンはありません。
経験するしかないのです。
そして、愛が要求する無理難題に果敢に立ち向かい、受け入れること・・・それ以外に道はないのです。
その先に、破滅しかないと分かっていても、その道を行くしかない。
その結果、死に至ることもある。
「死に至る病」と称されるのはそのためじゃないかと思いますね。
愛のウイルスに侵されて、生きながらえたら、抗体ができる。
その抗体があれば、多少の「業火」には耐えられる。
一度焼かれてみなされ。
次の恋が来た時には、思い切って飛び込んでみたらいい。
頑張った経験は報われなくとも、相手には届かなかったとしても・・・魂にしっかり刻まれ、次は間違えずにまっすぐ立ち向かえる。愛の抗体のおかげで、その癒し方も分かるようなる。
死ぬほどの痛みに思えるけど、耐えられるはず。耐えられるようにできているはず。信じて、飛び込んでしまいなさい。
そんなことを考えていたら、眞子様のご結婚の報道があり、とても頼もしく感じましたね。
あんな風に自分の愛を貫けたのなら、素晴らしいことです。
まわりの人がなんと言おうとも、すべてを敵に回しても、魂の導く方へまっすぐ歩いて行こうとなさる。周りの声に惑わされず、愛を信じる姿勢、立派です。
別にいいんです。その結婚が失敗しても、そのせいで後悔することになったとしても。
愛にまっすぐ正直に行動したということだけで、もう愛の世界では完結しているんです。
なにせ、愛の試練を与えられただけでも、すでに選ばれた人間なのですから。
多くの人間にそこまでの「愛の試練」は訪れません。
愛について何も知らない人は、いい加減な情報であれこれ批評しますけど、そんな言葉、耳には届かない。
愛の下に、平等や公平などないのです。
あるのは「絶対」だけなのですよ。
そこが愛の残酷なところなのです。