スピリチュアル的なメッセージがしっくりくるとき、意識の重心がぐっと後ろに下がります。
出来事の内側に巻き込まれるより、少し高い場所から全体を見渡す視点が常態になります。
その結果、日常会話やニュースが、物語としては理解できるけれど、切実さを帯びなくなる。
これは「冷めた」のではなく、同一化が外れた状態です。
だから、周囲がバカらしく見えること自体は異常ではありません。
ただ、その段階で多くの人が引っかかるのが、
「じゃあ私はもう人間として生きなくていいの?」
という違和感です。
ここで大事なのは、
高次の意識は“人間をやめること”を勧めていないという点です。
・感情を否定しない
でも
・感情を人格の中心にも置かない
そんな感じ。
感情は、使い捨てるものでも、崇めるものでもなく、
身体を通して現れる一時的な情報です。
風向きや気圧のようなもの。
今、多くの人が感じている「人間離れした感覚」は、
感情が消えたのではなく、
感情が“主語”である必要がなくなってきた状態に近いと思います。
一方で、
「自分の人間としての気持ちをどう扱えばいいかわからない」
と感じるのもとても自然です。
なぜなら、これまでのスピリチュアルは多くの場合、
・感情を癒す
・感情を解放する
・感情を超える
このどれかをゴールにしてきたから。
でも多分あなたの今のフェーズは違います。
癒すでも、解放するでも、超えるでもない。
ただ“同席させる”。
悲しみが出てきたら、
「悲しんでいる私がいるな」と横に置く。
怒りが出てきたら、
「身体に熱が走っているな」と観測する。
そこに「どうあるべきか」を持ち込まない。
感情がなくなっていってもいいのか?と思う人もいるかもしれませんが
はっきり言うと、
完全になくなることはありません。
ただ、
・波の振幅が小さくなる
・持続時間が短くなる
・物語化しなくなる
この変化は起きます。
それは「感情が減る」のではなく、
感情が透明になる感覚に近いのではないでしょうか。
「高次の意識で生きるか」
「人間の感情を持って生きるか」
という二択に見えているかもしれませんが、
実際にはそのどちらでもなく、
意識は広く、体験は人間として引き受ける
。
無理に、
「もっと人間らしくしよう」
「もっと超越しよう」
どちらに寄せる必要もありません。
ニュースが遠く感じる日があってもいい。
急に胸が締めつけられる日があってもいい。
どっちが私?という感覚そのものが、
まだ人間である証であり、
同時に、意識が拡張している証でもあります。
ブレてるわけでもなく
グラウンディングができてないというわけでもない。
考えて答えを出すものではなく、
数ヶ月から数年かけて、身体が勝手に調整していく類のものなのでしょう。
もし今できることがあるとしたら、
「感情をどう扱うか」より、
「感情が現れる身体を、ちゃんと地上に置いておくこと」。
歩く、
食べる、
触れる、
眠る。
それだけで十分、バランスは保たれます。
私たちは、こうやって、二つの世界を同時に歩いている途中です。
Makiko
これまで、意識の変化や身体感覚、
人生の節目に起きる内側のズレについて、
言葉にしたり、静かに対話する時間を持ってきました。
何かを教えたり、変化を促すことよりも、
その人が自分の感覚に戻っていくプロセスに
立ち会う形を大切にしています。
現在は、限られた人数での個別セッションと、
小さなコミュニティーの運営を行っています。