会いたくて、会いたくて
カウンセリングルームに入ってきた彼女は、少し疲れた様子だった。目の下には薄いクマがあり、話し始める前に深く息をついた。
「あの......正直、こんなこと話すの恥ずかしいんですけど」
彼女は手元のバッグをぎゅっと握りしめた。
ダイキ「大丈夫ですよ。ここではどんな話でも安心して話せます」
「......実は、職場の人のことが、頭から離れなくて」
彼女の声は小さかった。
「朝起きた瞬間から、その人のことを考えてるんです。会社に行くときも『今日は会えるかな』って。で、実際に会うと、もう......心臓がバクバクして。相手が他の人と話してるだけで胸が苦しくなって」
ダイキ「その方のことを考えると、体にも変化を感じるんですね」
「はい。で、これがおかしいって自分でもわかってるんです。だって相手、既婚者なんですよ。私も大人だし、分別あるつもりだったのに......」
彼女は言葉を切った。
「なのに、どうしてもその人のこと『獲得したい』って思っちゃうんです。変ですよね、この言葉。でも他に言いようがなくて。まるで......何かに取り憑かれてるみたいに」
脳が出す「獲得せよ」の信号
ダイキ「『獲得したい』という言葉、とても正直な表現だと思います。実は、恋愛中の脳では、まさにそういう信号が出ているんです」
「え......?」
彼女は顔を上げた。
ダイキ「人が誰かに強く惹かれているとき、脳の中で『尾状核』という部分が活性化することがわかっています」
「びじょう......かく?」
ダイキ「はい。尾状核は、脳の報酬システムの一部で、古い脳──爬虫類の時代から続く、とても原始的な部分なんです」
彼女は少し目を見開いた。
ダイキ「この部分が活性化すると、『この相手を獲得せよ』という強烈な信号が送られます。それは理性で何とかできるレベルを超えていることが多い」
「じゃあ......私がおかしいんじゃなくて、脳が......?」
彼女の声には、わずかな安堵が混じっていた。
ダイキ「そうです。あなたが感じている『止められない衝動』は、何百万年もの進化の中で作られてきた、生物としての仕組みなんです」
彼女はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「......それって、つまり、私の意志じゃどうにもならないってことですか?」
ドーパミンの罠
ダイキ「完全にコントロールできないわけではありません。でも、まずはその仕組みを理解することが大切です。尾状核が活性化すると、ドーパミンという物質が大量に放出されます」
「ドーパミン......聞いたことあります。快楽物質ですよね?」
ダイキ「そうです。ドーパミンは『報酬への期待』を生み出します。その人に会えると思うだけで、脳は『ご褒美がもらえる!』と興奮する。だから会いたくて会いたくてたまらなくなる」
彼女はうなずいた。
「まさに、それです......。会えると思うと、もう、胸がいっぱいになって。でも、実際会っても......」
「会っても?」
彼女は少し考えてから言った。
「......満足しないんです。もっと話したい、もっと近くにいたい、もっともっと......って」
ダイキ「それがドーパミンの特徴です。ドーパミンは『もっと欲しい』という渇望を作り出しますが、実際に得られても満たされない。だから、いつまでも追い求めてしまう」
彼女は深くうなずいた。
「本当に、その通りで......。私、最近すごく疲れてるんです。仕事中もその人のこと考えちゃって、ミスも増えて。夜も『明日はどうやって話しかけようか』とか考えて眠れなくて」
彼女の声には、疲労が滲んでいた。
なぜ、この人なのか
ダイキ「一つ聞いてもいいですか。その方の、どんなところに惹かれたんでしょう?」
彼女は少し考えた。
「最初は......仕事ができる人だなって思って。会議でも的確なこと言うし、後輩の面倒見もいいし。で、ある日、廊下ですれ違ったときに、ふっと笑いかけられて......それだけなんですけど」
「それだけ?」
「はい。でも、その瞬間から、もう......」
彼女は言葉に詰まった。
「頭の中がその人でいっぱいになったんです。理由なんてないんです。ただ、『この人だ』って」
ダイキ「その『この人だ』という感覚、とても強烈だったんですね」
「はい......。今思えば、異常ですよね。たった一瞬の笑顔で、こんなになるなんて」
ダイキ「でも、それは珍しいことではありません。恋愛感情というのは、論理的な判断とは別の回路で動いているんです」
彼女は不思議そうな顔をした。
ダイキ「尾状核が活性化すると、脳は『この相手は特別だ』という認識を強化します。相手の良いところばかりが目につき、悪いところは見えなくなる。そして、その人がいないと生きていけないような気持ちになる」
「......まさに、そうです」
彼女の声は震えていた。
「その人がいない日は、もう......一日中、胸に穴が空いたみたいで」
原始的な衝動の正体
ダイキ「もう一つ、大切なことがあります。尾状核は爬虫類脳の一部だとお伝えしましたよね」
「はい」
ダイキ「これはつまり、私たちが『人間』になる前から持っている、とても古い仕組みだということです」
彼女は黙って聞いていた。
ダイキ「爬虫類にとって、繁殖相手を獲得することは生存に直結していました。だから、脳は『この相手を逃してはいけない』と、生死をかけたような強烈な信号を出すんです」
「生死を......」
彼女は呟いた。
「たしかに、そんな感じです。その人を失ったら、もう生きていけないんじゃないかって......」
ダイキ「それが原始的な衝動の正体です。理性では『相手は既婚者だし、これは間違っている』とわかっていても、脳の古い部分は『この相手を獲得しなければ死ぬ』と叫んでいる」
彼女はゆっくりと息を吐いた。
「じゃあ......私がこんなに苦しいのは、脳が『死ぬぞ!』って騒いでるからなんですね」
「そう言えるかもしれません」
彼女は少し笑った。疲れた、でもどこか安心したような笑顔だった。
「なんか......ちょっと楽になりました。私がおかしいんじゃなくて、脳の仕組みがそうなってるだけなんだって思ったら」
報酬システムの暴走
ダイキ「ただ、一つ注意しなければならないことがあります」
彼女は真剣な表情で聞いていた。
ダイキ「脳の報酬システムは、本来は生きるために必要な行動を促すためのものでした。食べ物を探す、安全な場所を見つける、そして繁殖相手を見つける。でも現代社会では、この仕組みが必ずしもうまく働かない場合がある」
「うまく働かない......?」
ダイキ「たとえば、その方は既婚者ですよね。つまり、あなたが相手を『獲得』することは、現実的には難しい。でも、脳の報酬システムは、そんな社会的な事情は考慮しません」
彼女はうなずいた。
ダイキ「だから、『獲得できない相手』に対して報酬システムが暴走すると、終わりのない渇望が続いてしまう。これはとても苦しい状態です」
「終わりのない......」
彼女は深くうなずいた。
「そうなんです。もう、出口が見えなくて。この気持ち、いつまで続くんだろうって」
執着が生まれるとき
ダイキ「あなたが感じている『執着』について、少し掘り下げてみましょうか」
「執着......たしかに、執着してますよね、私」
彼女は自嘲気味に言った。
ダイキ「執着は、報酬システムがうまく満たされないときに強くなります。相手に会えない時間が長いほど、会えたときの喜びが大きくなる。そして、その喜びを求めて、また執着が強まる」
「悪循環なんですね」
「そうです。そして、この悪循環から抜け出すには、報酬システムを少しずつ落ち着かせていく必要があります」
彼女は前のめりになった。
「どうすれば......落ち着かせられるんですか?」
ダイキ「いくつか方法があります。でも、その前に一つ確認させてください。あなたは、この状態から抜け出したいと本当に思っていますか?」
彼女は少し驚いた顔をした。そして、しばらく黙った後、静かに言った。
「......正直、迷います。この苦しさから解放されたい気持ちと、でも、この気持ちを手放したくない気持ちと......」
ダイキ「それは、とても正直な答えです」
彼女は少しホッとした表情を見せた。
気づきの瞬間
ダイキ「今、あなたが言ってくれたこと、とても大切です。『この気持ちを手放したくない』という部分、もう少し聞かせてもらえますか?」
彼女は少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「......たぶん、この恋愛感情が、私を生きてるって実感させてくれてるんだと思います」
「生きてる実感?」
「はい。仕事も、毎日同じことの繰り返しで。家に帰っても一人で。週末も特にすることなくて......。でも、その人のことを考えてるときだけは、心臓がドキドキして、『ああ、私、生きてるんだ』って」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「だから......この気持ちを手放すのが怖いんです。この気持ちを手放したら、私、また空っぽになっちゃう気がして」
ダイキはしばらく沈黙を保った。彼女の涙が、一粒、二粒とこぼれた。
ダイキ「その『空っぽ』という感覚、もう少し聞かせてもらえますか?」
彼女はハンカチで目元を拭いながら言った。
「......子供の頃から、なんとなく、自分が空っぽな気がしてたんです。親は忙しくて、あんまり構ってもらえなくて。友達も少なくて。で、大人になっても、特に『これがやりたい!』みたいなこともなくて」
「ずっと、空っぽだった」
「はい......。でも、その人に恋をしてから、初めて『満たされる』感じがしたんです。だから......」
彼女は言葉を探していた。
ダイキ「だから、手放せない」
「......はい」
脳科学と、心の空洞
ダイキ「今、あなたが話してくれたことは、とても本質的なことです」
彼女は顔を上げた。
ダイキ「さっき、脳の報酬システムの話をしましたよね。ドーパミンが『報酬への期待』を作り出すと」
「はい」
ダイキ「実は、このドーパミンは、恋愛以外のことでも分泌されます。たとえば、好きなことに没頭しているとき、何か達成感を感じたとき、人とのつながりを感じたとき」
彼女は黙って聞いていた。
ダイキ「でも、もしそういう経験が少ないと、脳は『報酬』に飢えた状態になります。そして、たまたま強烈な恋愛感情が生まれると、脳は『これだ! これが報酬だ!』と飛びついてしまう」
「......私、まさにそうかもしれません」
彼女の声は震えていた。
「ずっと、何も楽しいことがなくて。で、その人に恋をして、初めて『これが幸せなんだ』って思ったんです」
ダイキ「その気持ち、よくわかります。でも、一つだけ覚えておいてほしいことがあります」
「何ですか?」
ダイキ「恋愛感情は、とても強烈ですが、一時的なものです。尾状核の活性化も、永遠には続きません」
彼女は不安そうな顔をした。
ダイキ「そして、もし恋愛だけが『報酬』の源だとしたら、その恋愛が終わったとき、また空っぽに戻ってしまう」
彼女は深くうなずいた。
「......それが怖いんです。もし、この恋が終わったら、私、どうなっちゃうんだろうって」
別の報酬を見つける
ダイキ「じゃあ、一つ提案してもいいですか」
「はい」
ダイキ「今すぐその恋愛感情を手放す必要はありません。でも、同時に、他の『報酬』も少しずつ見つけていく。どうでしょう?」
彼女は少し考えた。
「他の報酬......?」
ダイキ「そうです。たとえば、何か小さなことでもいいんです。朝、好きなコーヒーを淹れてゆっくり飲む。休日に、ずっと気になってた場所に行ってみる。誰かと、たわいもない話をする」
「そんな小さなこと......?」
ダイキ「はい。最初は小さなことで十分です。大切なのは、脳に『恋愛以外でも報酬は得られるんだ』と教えてあげることなんです」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「......やってみます」
「無理しなくていいですよ。できる範囲で」
彼女は少し笑った。
「なんか、不思議ですね。恋愛の相談に来たのに、コーヒーの話になるなんて」
ダイキも笑った。
「でも、それが大切なんです。脳の報酬システムは、案外単純なところがあって、小さな『いいこと』を積み重ねていくと、少しずつバランスが取れてきます」
理性と本能の対話
彼女は少し落ち着いた様子で話し始めた。
「さっき、爬虫類脳の話がありましたよね。理性では間違ってるってわかってるのに、古い脳が『獲得しろ!』って叫んでるって」
「はい」
彼女は深く息を吸った。
「じゃあ、私がやるべきことは、その古い脳に『大丈夫だよ、死なないよ』って教えてあげることなんですかね」
ダイキは少し驚いた表情を見せた。
「......素晴らしい気づきですね」
「そうですか?」
彼女は照れくさそうに笑った。
ダイキ「そうです。まさに、それが本質です。古い脳は『この相手を逃したら終わりだ』と騒いでいる。でも、理性は『そんなことはない、他にも道はある』と知っている。この二つの対話が大切なんです」
「対話......」
彼女は呟いた。
ダイキ「はい。無理やり感情を押し殺すのではなく、『そうだね、あなた(古い脳)は不安なんだね』と認めてあげる。その上で、『でも、大丈夫だよ』と優しく伝えてあげる」
彼女の目に、また涙が浮かんだ。でも、今度は違う種類の涙だった。
「......なんか、初めて自分に優しくできそうな気がします」
ゆっくりと、一歩ずつ
カウンセリングの終わりが近づいていた。彼女は、来たときよりもずっと穏やかな表情をしていた。
ダイキ「最後に、一つだけ。この先、また苦しくなる日もあると思います」
「はい」
彼女はうなずいた。
ダイキ「そのとき、思い出してほしいんです。あなたが感じている衝動は、何百万年もの進化が作り出した、とても原始的で強力なものだということを」
「はい」
ダイキ「だから、『私は弱い』とか『私はダメだ』と思わないでください。これは、人間である限り、誰にでも起こりうることなんです」
彼女は深くうなずいた。
「......わかりました」
ダイキ「そして、少しずつでいいので、恋愛以外の『報酬』も見つけていってください。小さなことから」
「はい。まずは......朝のコーヒーから始めてみます」
彼女は笑った。
「そして、自分の古い脳に、『大丈夫だよ』って、たまに言ってあげます」
ダイキ「それで十分です」
彼女は立ち上がりながら言った。
「今日、来てよかったです。なんか......初めて、自分のことが少しわかった気がします」
「それは良かったです」
彼女はドアに向かって歩き始めた。そして、振り返って言った。
「......先生、一つだけ」
「はい?」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「私の脳、結構やっかいですけど......でも、こんなに強く誰かを想えるって、悪いことばかりじゃないですよね」
ダイキは微笑んだ。
「ええ。それは、あなたが生きている証拠です」
彼女は満足そうにうなずいて、カウンセリングルームを後にした。
未来への一歩
それから数週間後、彼女から連絡があった。
「少しずつですが、落ち着いてきました」というメッセージだった。
「朝のコーヒーを丁寧に淹れるようになって、休日は図書館に行くようになりました。相手のことは、まだ時々考えますが、以前ほど苦しくはありません」
そして、最後にこう書かれていた。
「私、気づいたんです。『この人じゃなきゃダメだ』と思っていたのは、本当は『誰かに必要とされたい』という気持ちだったんだって。だから、まずは自分で自分を大切にすることから始めてみます」
ダイキは、そのメッセージを読みながら、穏やかな気持ちになった。
彼女の脳の報酬システムは、まだ完全に落ち着いてはいないかもしれない。尾状核の活性化も、まだ続いているかもしれない。でも、彼女は今、理性と本能の対話を始めている。そして、恋愛以外の場所にも、小さな報酬を見つけ始めている。
それは、きっと、彼女が本当の意味で「生きている」と感じられる、第一歩なのだ。
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🙋 このブログを書いている人について
だいき|産業カウンセラー・キャリアコンサルタント
会社員時代、職場の人間関係でメンタルが限界に。「このままではまずい」と一念発起し、コミュニケーションを学び直した経験が、産業カウンセラー・キャリアコンサルタントの資格取得につながりました。
恋愛・婚活でも7年間で88人とデートを重ねながら、うまくいかない時期が長く続きました。その苦しさを知っているからこそ、脳科学・進化心理学・愛着理論といった知識を「自分ごと」として学び続けてきました。
キャリアブレイクコミュニティでは160回以上のワークショップを主催。さまざまな悩みや状況を持つ方と向き合い続けてきた経験が、相談の土台になっています。
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