止められない比較癖
カウンセリングルームの椅子に腰を下ろしたクライエントは、最初少し緊張した様子だった。私は静かに待った。
クライエント「あの……正直、こういうところに来るのは初めてで。でも、もう限界かなって思って」
ダイキ「限界、ですか」
クライエント「ええ。なんていうか、毎日しんどくて。朝起きるのも億劫だし、仕事中もぼーっとしちゃうんです」
ダイキ「最近、何か変化がありましたか?」
クライエント「......SNSなんですよね。見なきゃいいのに、つい見ちゃう。で、同級生の投稿とか見ると、もう......」
クライエントは言葉を詰まらせた。
クライエント「みんな、すごいんですよ。『昇進しました』とか『新しいプロジェクトを任されました』とか。で、自分は何やってんだろうって」
ダイキ「比べてしまう、ということですか?」
クライエント「そうなんです。頭では分かってるんです。人は人、自分は自分って。でも、気づいたら比べてて......そんな自分がまた情けなくて」
比較の始まり
ダイキ「いつ頃から、そういうふうに比べるようになったんでしょう」
クライエントは少し考えてから答えた。
クライエント「昔からかもしれません。学生の頃から、成績とか、スポーツとか......いつも誰かと比べられてた気がします」
ダイキ「比べられてた、というのは?」
クライエント「親にも、先生にも。『○○君はもっと頑張ってるぞ』とか『なんでお前はできないんだ』とか」
そう言いながら、クライエントは苦笑いを浮かべた。
クライエント「会社に入ってからも同じです。同期と比べられて、後輩にも追い抜かれて......」
ダイキ「今も、会社で比べられることがあるんですか?」
クライエント「直接言われることは減りましたけど、評価の時とか、人事異動の時とか......やっぱり比べられてるって感じます。で、いつも自分は劣ってるなって」
誰のための基準なのか
ダイキ「劣ってる、というのは、何を基準に感じているんでしょう」
クライエント「え? それは......出世してるかどうかとか、給料とか、仕事の成果とか」
ダイキ「それは、あなた自身が大切にしている基準ですか?」
クライエントは黙り込んだ。しばらくして、小さな声で答えた。
クライエント「......分からないです。でも、それが普通じゃないですか?」
ダイキ「普通、というのは?」
クライエント「みんな、そういうので判断してるんじゃないですか。出世してる人が偉いとか、稼いでる人がすごいとか」
ダイキ「みんな、というのは、具体的には誰のことでしょう」
クライエント「......」
クライエントは答えられず、うつむいた。
ダイキ「もしかしたら、『みんな』って、誰か特定の人の声なのかもしれませんね」
クライエント「......親、かな。あと、上司とか」
ダイキ「あなた自身は、どう思っていますか? 出世や給料が、本当に大切な基準だと思いますか?」
クライエントは長い沈黙の後、ぽつりと言った。
クライエント「正直......よく分かんないです。ずっとそれが当たり前だと思ってたから」
他人軸という名の檻
ダイキ「他人の基準で自分を測り続けると、どんなことが起きると思いますか?」
クライエント「しんどい、です。ずっとしんどい」
ダイキ「どんなふうにしんどいですか?」
クライエント「......終わりがないんです。誰かと比べて、ああダメだって思って。で、頑張って少し良くなっても、また別の誰かと比べちゃって。キリがない」
クライエントの声が震えた。
クライエント「最近、本当に疲れて。夜も眠れないし、朝起きるのもつらくて。SNS見ただけで気分が落ちるのに、見ちゃうんです。で、また落ち込んで......」
ダイキ「それは、とてもつらいですね」
クライエント「はい......」
ダイキ「もし、比べることをやめたら、どうなると思いますか?」
クライエント「え......?」
ダイキ「もし誰とも比べなくていいとしたら、何が起きるでしょう」
クライエントは困惑した表情を浮かべた。
クライエント「でも、比べないと......自分がどうなのか分からないじゃないですか」
ダイキ「他人と比べないと、自分の価値が分からない?」
クライエント「......そう、です」
ダイキ「それは、少し苦しい考え方かもしれませんね」
小さな気づきの瞬間
ダイキ「例えば、今日ここに来る前、何か楽しいことや嬉しいことはありましたか?」
クライエント「え......? いや、特には......あ、でも」
ダイキ「何かありましたか?」
クライエント「朝、コーヒー飲んだとき、久しぶりに美味しいって思ったかも」
ダイキ「それは、誰かと比べて美味しかったんでしょうか」
クライエント「......いや、そういうわけじゃないですけど」
ダイキ「じゃあ、何と比べたんでしょう」
クライエント「比べてないです。ただ、美味しかった」
ダイキ「そうですね。比べなくても、美味しいものは美味しい」
クライエントは少し考え込んだ。
クライエント「......ああ」
ダイキ「何か気づきましたか?」
クライエント「比べなくても、感じられることってあるんですね」
ダイキ「そうです。むしろ、比べない方が純粋に感じられることの方が多いかもしれません」
誰かの期待という重荷
ダイキ「ところで、もし今の会社で昇進しなかったとしたら、何が困りますか?」
クライエント「え......? そりゃ、給料も上がらないし、周りからも......」
ダイキ「周りから、どう思われますか?」
クライエント「......ダメなやつだって思われるんじゃないかって」
ダイキ「それは、誰がそう思うんでしょう」
クライエント「みんな......いや、待って」
クライエントは言葉を切った。
クライエント「また『みんな』って言っちゃいました」
ダイキ「具体的には、誰でしょう」
クライエント「......親、かな。あと、昔の上司。学生時代の先生とか」
ダイキ「今の同僚や友人は、あなたが昇進しないとダメだと思うでしょうか」
クライエント「......そんなこと、考えたこともなかったです」
ダイキ「もしかしたら、あなたは今も、過去の誰かの期待に応えようとしているのかもしれませんね」
クライエントは深く息を吐いた。
クライエント「そうかもしれません......ずっと、期待に応えなきゃって思ってた気がします」
嫌われる恐怖の正体
ダイキ「人と比べてしまうとき、心の奥で何を恐れていると思いますか?」
クライエント「恐れ......?」
ダイキ「比べて、自分が劣っていると感じたとき、何が起きると思いますか」
クライエントはしばらく考えてから答えた。
クライエント「......見捨てられる、かな」
ダイキ「見捨てられる?」
クライエント「ダメなやつだって思われて、誰からも相手にされなくなる。一人ぼっちになる」
そう言ったとき、クライエントの目に涙が浮かんだ。
クライエント「......怖いんです。みんなに嫌われるのが」
ダイキ「その恐怖は、とても強いですね」
クライエント「はい......だから、頑張らなきゃって。認めてもらわなきゃって」
ダイキ「でも、頑張っても頑張っても、その恐怖は消えませんでしたね」
クライエント「......そうです。むしろ、どんどん大きくなってる気がします」
ダイキ「実は、その恐怖は、とても原始的な反応なんです」
クライエント「原始的......?」
ダイキ「昔、人間が集団で生きていた頃、仲間から嫌われることは、本当に命に関わることでした。だから、私たちの本能は『嫌われる=危険』と感じるように出来ているんです」
クライエント「でも、今は違いますよね?」
ダイキ「そうです。今は、誰かに嫌われても、実際に命を失うことはありません。でも、本能はそれを理解していないんです」
クライエント「じゃあ、この恐怖は......」
ダイキ「過剰反応かもしれません。警戒しすぎて、エネルギーを使いすぎている状態です」
比較のコストパフォーマンス
ダイキ「毎日、人と比べることに、どれくらいの時間とエネルギーを使っていると思いますか?」
クライエント「......考えたことなかったです」
ダイキ「朝起きてから、SNSを見て、会社で周りを気にして、帰宅後もまたSNSを見て」
クライエント「......かなり、使ってますね」
ダイキ「そのエネルギーを、他のことに使えたら、どうなると思いますか?」
クライエント「他のこと......? 例えば?」
ダイキ「あなたが本当にやりたいこと、楽しいと感じること」
クライエントは黙り込んだ。
クライエント「......分からないです。やりたいことって、何だろう」
ダイキ「それは、比較に使っていたエネルギーが大きすぎて、自分のことを考える余裕がなかったのかもしれませんね」
クライエント「......そうかもしれません」
自分という基準
ダイキ「少し実験をしてみましょうか」
クライエント「実験、ですか?」
ダイキ「今週一週間、SNSを見ないで過ごしてみませんか」
クライエント「え......でも」
ダイキ「無理にとは言いません。でも、もし可能なら、試してみてほしいんです」
クライエント「......分かりました。やってみます」
ダイキ「その代わり、毎日一つだけ、自分が『いいな』と感じたことを書き留めてみてください。朝のコーヒーが美味しかったとか、そういう小さなことで構いません」
クライエント「比較じゃなくて?」
ダイキ「そうです。誰とも比べず、ただ自分が感じたことを」
翌週、クライエントはカウンセリングルームに現れた。表情が、前回よりも少し柔らかく見えた。
ダイキ「どうでしたか?」
クライエント「......正直、最初の三日くらいは、すごく落ち着かなかったです。何度もSNSを開きそうになって」
ダイキ「そうでしたか」
クライエント「でも、四日目くらいから、なんか......楽になった気がします」
ダイキ「それは、良かったですね」
クライエント「で、書き留めたんです。『いいな』と思ったこと」
クライエントはスマホのメモを見せてくれた。
「朝日が綺麗だった」「同僚が差し入れをくれた」「お風呂でリラックスできた」「好きな音楽を聴いて、久しぶりに心が動いた」
ダイキ「これは、誰かと比べましたか?」
クライエント「......比べてないです。ただ、感じたことです」
ダイキ「それが、あなたの基準です」
クライエント「僕の、基準......」
ダイキ「他人の基準ではなく、あなた自身が感じる『いいな』という感覚」
比べなくてもいい自分
クライエントは、しばらく黙ってメモを見つめていた。
クライエント「なんか......不思議な感じです」
ダイキ「どんなふうに?」
クライエント「比べなくても、自分がちゃんといるっていうか。存在していいんだって思えるというか」
ダイキ「それは、とても大切な気づきですね」
クライエント「でも、また比べちゃいそうで怖いです」
ダイキ「それは、自然なことです。長年の癖は、すぐには消えません」
クライエント「じゃあ、どうすれば......」
ダイキ「気づいたら、立ち止まる。『あ、今比べてるな』って」
クライエント「立ち止まるだけ、ですか?」
ダイキ「そうです。無理に止めようとしなくていい。ただ、『今、比べてるな』と気づくだけで、少しずつ変わっていきます」
クライエントは深く息を吐いた。
クライエント「......やってみます」
これからの一歩
ダイキ「最後に、これから何か試してみたいことはありますか?」
クライエント「......実は、昔、絵を描くのが好きだったんです」
ダイキ「絵を?」
クライエント「はい。でも、『そんなことしてる暇があったら勉強しろ』って言われて、やめちゃって」
ダイキ「今は、どうですか? やってみたいですか?」
クライエントは少し考えてから、はにかんだように笑った。
クライエント「......やってみようかな。誰にも見せなくていいなら」
ダイキ「誰かに見せるために描く必要はありません。あなたが楽しいと感じるなら、それで十分です」
クライエント「そうですよね......比べなくていいんですよね」
ダイキ「そうです。あなたは、あなたのままでいい」
クライエントは、静かに頷いた。その表情には、少しだけ、希望の光が宿っているように見えた。
数ヶ月後、クライエントから連絡があった。
「SNSは、たまに見るようになりました。でも、以前みたいに落ち込むことは減りました。絵も、週末に描いてます。下手ですけど、楽しいです」
人と比べてしまう自分から完全に抜け出すことは、簡単ではない。でも、少しずつ、自分の感覚を信じることができるようになる。それだけで、世界は少し優しく見えてくる。