気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その60~

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皆さまいつもありがとうございます。60回目です。
このような読み難い文章を毎回欠かさずにお読みくださっている方も居られます。本当に心より感謝申し上げます。
実体験を元に好き勝手書かせてもらってます。
呼吸や声に専門に携わっていると、動物の一種である人間の中に在る植物性を感じます。バターとかマーガリンの話なんかでは無くです。
昨日も突然補足的に、声は、聞かせようとはしなくても良いなどと書きまして、戸惑われた方もいらしたでしょう。
それでもそんなことを書いたのは、このブログでの声へのアプローチのように必然性を持って解き放たれるエネルギーとは、全て自意識の束縛が脱落した時の " リアクション " であると実感するからです。
それまで自分を成り立たせていたものをリセットしようという拘りの無さによって全てを投げ出した結果、その重みを受け取った地の側から明らかな折り返しのエネルギーが帰って来る。それをただ素直に体をバイパスにして放散させること、それのみなのです。
それは恰も、植物が成長する条件として、雨や日光や肥しとなる物質の全てが、上から下へ向けて降り注ぐベクトルしか持っていないのにも似ています。
人がその世話をするにしても、ひたすら土壌に向けて水や何かを施すことしか出来ません。植物が伸びる方向、即ち上方へ向けては直接に力を貸すことなど一切出来ないということです。
声も全く同じです。
ひたすら自分が居るその場所で、今どのように在るのか、どのように地面と接していて、そのただ在ることの中にどれだけの充実感を見出すことが出来るか、それ以外に声を育てる術はありません。
充実したありのままの呼吸で自分という土壌の肥沃さに目覚めることが、唯一声に、上方や前方に開かれた方向性を与え得る手段なのです。
声は、大きすぎると耳を塞がれてしまったり、聞く側の心を閉ざすことがあります。
反対に小さいと、聞き耳を立てさせることも大いにあったり、しっかり聞こうと距離を詰めてもらえることもあります。
何れにしても、その声によって最終的に本当に振るわせたい対象は、鼓膜では無くて心の筈です。
歌は、どれだけ大きな声が出るかは全く重要ではありません。なので、そのような努力や練習は本当に無駄では無いかと思います。
歌は、話し声のような小さな声をどれだけ大切に育んで、まるでゆっくりと歩き出すような感じで自然に歌い出せるかが全てと言っても良いでしょう。
歌は恫喝の亜種のように、大声で圧倒して驚かせることでは無く、自分の臓器から骨から筋肉から、全ての調和した振動を声によって静かに波及させることです。
もしこのブログの読者で歌唱の悩みをお持ちの方が居られましたら、どうか勇気を持って、小さな声で歌うことを心掛けてみてください。
きっと、色んな事が解決しますから。
音は光や臭気のように壁一枚で遮ったり防ぐことは不可能です。
迷惑行為や公害の中でも、最も厄介なのが騒音かと思います。
音はそれほどに、何処までも追い掛けて来ますし、防ぐ為に介在させた全ての物を逆手に取っては振動の媒介として我が力の増幅伸長に利用してしまう、そんな特徴があるのです。
だから声量や声のインパクト、説得力などで悩んでいる方がありましたら、声即ち音とは、そのような性質のエネルギーで感覚に訴えていることを是非とも認識してみてください。
何故か突然歌の話、助言擬きになって、こんな寄り道のような話だけで一回分書き切ってしまいました。
申し訳ありません。
明日は、" O " でもう一工夫、進められれば次の母音、" A " にも触れてみたいと思います。

つづく

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