気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その60~
皆さまいつもありがとうございます。60回目です。このような読み難い文章を毎回欠かさずにお読みくださっている方も居られます。本当に心より感謝申し上げます。実体験を元に好き勝手書かせてもらってます。呼吸や声に専門に携わっていると、動物の一種である人間の中に在る植物性を感じます。バターとかマーガリンの話なんかでは無くです。昨日も突然補足的に、声は、聞かせようとはしなくても良いなどと書きまして、戸惑われた方もいらしたでしょう。それでもそんなことを書いたのは、このブログでの声へのアプローチのように必然性を持って解き放たれるエネルギーとは、全て自意識の束縛が脱落した時の " リアクション " であると実感するからです。それまで自分を成り立たせていたものをリセットしようという拘りの無さによって全てを投げ出した結果、その重みを受け取った地の側から明らかな折り返しのエネルギーが帰って来る。それをただ素直に体をバイパスにして放散させること、それのみなのです。それは恰も、植物が成長する条件として、雨や日光や肥しとなる物質の全てが、上から下へ向けて降り注ぐベクトルしか持っていないのにも似ています。人がその世話をするにしても、ひたすら土壌に向けて水や何かを施すことしか出来ません。植物が伸びる方向、即ち上方へ向けては直接に力を貸すことなど一切出来ないということです。声も全く同じです。ひたすら自分が居るその場所で、今どのように在るのか、どのように地面と接していて、そのただ在ることの中にどれだけの充実感を見出すことが出来るか、それ以外に声を育てる術はありません。充実したありのままの呼吸で自分という土壌の肥沃さ
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