2月13日の地震、翌日なんとなく思う事

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2月13日夜には、大きな地震がありました。
直接・間接に被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

そう書いている今も、微弱な余震が来ています。

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昨晩の地震では…(私は、3.11のときも昨晩も首都圏都市部に居ました)

・揺れの激しさ、止まらなさを感じはじめ、「一体これは何事だ、3.11の再来か」と考えている間は、数秒ぐらい動きが止まっていたと思います。

・次には、何はともあれ屋内から脱出しないといけないと考え、棚等の転倒や落下物に気を使いながら、家の窓やドアを開放し、必要なものを持って玄関を出ました。

・「必要なものとは何か」などにつき、非合理な判断もあったとは思うものの、けっこうテキパキと行動していたんでは?と思います。

・火災や停電が気にかかり、しばらくは起きていないとと思いました。それらもひと段落と感じると、どっと空腹感が押し寄せてき、インスタント食品を結構な勢いで食べてしまいました。

このあたりの心の動きや行動には、あまり人の、(あるいは私の)<個性・性格傾向が出ていません>。誰でも同じとは言いませんが、人の持つシンプルな本能が出ただけだ、ともいえますね。

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過去の地震の記憶が生々しければ、被害を受けまい・最小限にしよう、と敏感になるのも自然です。

反対に無力感が強く出て、あまり行動しない、何もせず寝てしまうなども、これまた自然といえます。

こうしたことは、日頃の心の悩みについても通じることです。

「人との関わりにおける、過去のいやな記憶をなかなか忘れられない」のも、あまりに楽観的すぎるとか、何でもすぐ忘れてしまうよりは、動物として適応的なのです。

一方、「何をやっても無力だ」と感じ、あまり動かない・考えないというのも、これはこれで合理的、と考えます。

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「コロナ禍において、かさねて今回の地震があったこと」についても…

率直に言えば「世の中何があるかわからないんだから、あまり小さいことで悩んでも仕方ない」と感じた人もいるでしょう。

その結果、なんとなしに取り組んでみたいと思っていた課題に、より意欲的になる人もいるでしょうね。

あるいは、日頃の悩みについて気楽に考えた結果、享楽的な振る舞いに流れる人もいるでしょう。これだって無視できない人間の傾向です。

一方、「コロナ、そして地震、ということは他の災禍も…」との方向でいっそう重苦しい気分、うつうつとした気持ちになる、という人もいるでしょうね。

このどの傾向が正しい、どうあるべきだ、といった話ではもちろんありません。どんな心の動きが強めに出るかは、その時々にもよることですしね。

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2月14日も暮れてきましたが、これといった結論などはありません。

今日ココで何を書くべきか、いろいろと考えましたが、特に結論というものはない、それも自分だと感じました。

しいて言えば、

人を(ほぼ)等しく動揺させるような出来事があったとき、気づくこともあるな、と思った次第です。
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