「知らない」ことの怖さ、もったいなさ

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コラム
人の心の悩みは、こつこつ、じんわりと改善していくこともある一方で、

ひょんなことでパッと解決してしまうことも多い、
これは、自身の経験上からも思います。

そのひょんなこととは、ひとつには「知識」です。
考え方がどうのこうのという以前に、
知らなかったことを知るだけで、問題が解決してしまうことがあるのです。

反対に言えば、知れることを知らないだけで、長い間悩み続けるということも。怖いことでもあり、実にもったいないことでもありますね。

例を挙げれば、私自身の、昔の、中学不登校経験です。
当時はまだ登校拒否という呼ばれ方もありました。

ここで、たいへん安価に通えるフリースクールがあること、
それに、中学の出席日数を問わない公立高校があり進学できること、
こういった「情報」を「知る」ことで、私は前向きになれたのです。
(一定期間は「さなぎ」のようにこもっていましたが)

さらには、高校にもし行かれなくても「大検(今で言う高認)」を利用できることを知ったのも、心の支えとなりました。

情報をくれたのは主に母、それに一部教師で、いわゆるソースは新聞等でした。
でもそれが私を一面では救ったのです。
地域版にだけ載っているとか、ほんとうよく探してやっと見つかるかどうか、というレベルのものも、大きな救いになったことがありました。

「子どもが情報にまみれすぎている」とは、ネットのなかった時代からも言われていることです。
しかし一方で、テレビもラジオもない、あるいは今で言えばまったくネットを見られない(または見ない)という子どもも大人もいるはず。
情報過多が問題であるとしても、情報の過少もまた、問題だと考えます。

たとえば不登校で言えば、「不登校」という言葉をテレビやネットで知ることで、「どうやらそういう子どもは、自分の他にもいるんだな」「いるから、話題とされるんだな」と子どもは知れます。

あるいはアルコール依存(症)にしても、ネットで「お酒」「やめられない」などと検索すれば「どうやらそうした問題が世の中にはあるんだな」という、最低限のことは知れますね。自分がそれに当てはまるのか、どうそれと向き合うか以前の話です。

こういった、当たり前に思える情報であっても、知らない人は知らないのです。

メディアも含めてまったく外界と遮断された生活を送っていれば、もしちょっと外に出たとき、皆がなぜマスクをしているのか、まるでわからないかもしれませんね。有り得る話です。
もっと言えば、「人とはむかしから皆、あのようなもの(マスク)をするものであって、最近急に普及したのではないだろう」と思ってしまうかも。

悩みごとの話というと、どうしても心の持ちようですとか、考え方ですとかに話が向きがちです。
しかしそもそも論として「知識を持っているかどうか」も、ものごとを上手く運ぶには、大切なのです。

自分自身や子ども、家族、友人、たまたま居合わせた人などが「世間的には当然と思える知識・共有されている知識を、まったく持っていない可能性」にも、ときどき、目を向けたいものです。



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