人に評価されたくない。
そう感じる人ほど、実は人を評価していることがあります。
心の仕組みとして、そうなっていますという話です。
あの人は浅い。
あの人は間違っている。
あの人はわかっていない。
あの人はすごい。
あの人はダメだ。
私たちは無意識のうちに人を測っています。
そして、自分が人を測るために使っている物差しで、自分もまた測られると思っています。
人を間違っていると切り捨てる人ほど、自分が間違っていると思われることを怖がります。
人を浅いと見ている人ほど、自分が浅いと思われることを怖がります。
人を価値があるかないかで見ている人ほど、自分の価値を測られることを怖がります。
他人の目が怖いとき、そこにあるのは他人の評価だけではありません。
自分の中にある物差しが、自分に向いているのです。
たとえば、SNSで誰かの投稿を見て、浅いなと思う。
誰かの発言を見て、この人はわかっていないなと思う。
誰かの失敗を見て、恥ずかしいなと思う。
その瞬間、その人を見ているようで、自分の世界のルールを確認しています。
浅いことは恥ずかしい。
わかっていないことは恥ずかしい。
失敗することは恥ずかしい。
人に向けた判断は、いつの間にか自分への命令です。
浅く見られてはいけない。
間違ってはいけない。
失敗してはいけない。
だから、人の評価が怖くなる。
他人が怖いのではなく、自分の中にある裁きが怖いのです。
良い悪いの判断は、思っているほど固定されたものではありません。
その時は良いと思ったことが、後から違って見えることもあります。
その時は悪いと思った出来事が、後から必要だったとわかることもあります。
後からする判断は、後からしかできません。
自己否定も、正当化も、構造は同じです。
過去の自分を悪い側に置くか、良い側に置くか。
反対に見えて、どちらも裁きの中にいます。 負けるか勝つかをしているだけです。
本当に必要なのは、過去の自分を悪者にすることでも、正しいことにすることでもありません。
ただ見ることです。
あの時の自分には、そう見えていた。
あの時の自分は、その見え方の中で選んだ。
今は、違う見え方をしている。
それだけです。
責任を取ることと、自分を咎めることは違います。
見えたから、動く。
必要だから、行動する。
理解したから、変える。
それでいい。
ここで大事なのは、人を評価している自分をまた評価しないことです。
人を裁く自分は未熟だ、と考え始めると、また同じ場所に戻ります。
良い悪いから自由になろうとしているのに、良い悪いで自分を裁いている。
だから最初にすることは、気づくことだけです。
今、自分は誰かを浅いと見ている。
今、自分は誰かを下に置くことで安心しようとしている。
今、自分はどんな物差しで世界を見ているのか。
その問いは、自分を責めるためのものではありません。
自分がどんな基準に縛られているかを見るためのものです。
人を浅いと見なくなると、自分が浅いと思われる怖さも弱くなります。
人を失敗者として見なくなると、自分が失敗者に見られる怖さも弱くなります。
人を価値のあるなしで測らなくなると、自分の価値を測られる怖さも弱くなります。
人を裁くほど、自分も裁かれる世界に住むことになります。
評価から自由になる入り口は、評価されないように生きることではありません。
自分が評価していることに気づくことです。
そして、評価の物差しを置いたとき、自分を縛っていたのは自分だったと気づきます。