四月の朝は、いつも光が薄く感じる。
教室に入った瞬間、藤堂莉緒はその独特のにおいに気づく。
新しい机と、古い建物の埃と、子どもたちが持ち込む春の外の空気。
それから、もう一つ。白が乾くときの、鼻の奥を刺すような薄い匂い。
黒板の前の掲示物を貼り替えたばかりで、テープを使った跡がまだ残っていた。
七年間、同じにおいを嗅いできたはずなのに、四月だけはいつも少し違う気がした。
「おはようございます」
子どもたちが立ち上がり、声を揃える。
まだぎこちない、一年生の最初の一週間。
声のタイミングがばらばらで、誰かが遅れて、誰かが早すぎる。
「おはようございます。座ってください」
莉緒は黒板の前に立ち、出席を確認した。二十七名。今日も全員いる。
今日の図工の課題は、塗り絵だった。
プリントには、野原と家と、空を飛ぶ鳥が描いてあった。
シンプルな線画。
莉緒が前任の先生から引き継いだ、毎年四月に使うテンプレートだった。
配るたびに少しだけ違和感があった。
でも毎年使うのは、評価がしやすいからだ。
丁寧さ、という基準が、そこに存在できるから。
「好きな色で塗っていいよ。はみ出さないように、丁寧にね」
莉緒はそう言いながら、色鉛筆の箱を配って回った。
子どもたちはすぐに夢中になる。
青い空、緑の野原、茶色い家。見回すと、だいたいどの机も、
似たような色で埋まっていく。
それはある意味、当たり前のこと。
そのとき、莉緒は一つの机の前で立ち止まった。
七番、石田湊。
湊の塗り絵は、ほかの子と違った。
空が、黄色かった。
野原が、赤かった。
家は、青と紫のまだら模様で、屋根には緑の水玉が描き足されていた。
鳥は黒くて、羽が異様に大きく、まるで怪物みたいに見えた。
しかも、いたるところで線からはみ出し、色が隣の区画に侵食していた。
莉緒は息をのんだ。
それは確かに、上手くはなかった。
でも、目が離せなかった。
湊は莉緒の存在に気づかないまま、真剣な顔で黒の色鉛筆を動かしていた。
眉が少し寄っていて、唇が微かに開いている。
夢中、という言葉がそのまま人の形になったような顔だった。
「石田くん」
莉緒は声をかけた。反応がない。
「石田くん」
湊が顔を上げる。目が大きい子だった。
「これ、自分で考えたの?」
「うん」湊はあっさり答えた。
「ほんとは黄色いとおもう。だって夕方、黄色いもん」
「鳥は?」
「夢で見たんだ」
莉緒は目を泳がせた。
「そっかー」
面白いね、と言いかけた。本当にそう思った。喉のあたりまで言葉が来た。
でも口の中で、乾いた。
代わりに出てきたのは、別の人みたいな言葉だった。
「でも、はみ出てるね」
湊が莉緒の顔を見た。
「線から出ないようにしてみようか」
湊は「……うん」と言って、目を落とした。
莉緒は次の机へ歩いた。
足が少し重かった。
放課後、職員室に戻ると、莉緒は湊の塗り絵のことを考え続けていた。
なぜあのとき、「面白いね」と言えなかったのか。
言おうとしたのだ。でも出なかった。
出なかったのは、たぶん、教室の奥の棚が見えたからだった。
そこには、去年の図工の評価シートが綴じてある。
「丁寧さ」「完成度」「課題への取り組み」。
三つの基準で、三段階の評価をつける。
湊の絵を、莉緒はどう評価するのか。考えた瞬間に、言葉が詰まった。
それだけではない。
来月には学校公開がある。保護者が教室を見に来る。
廊下に作品を貼り出す。
そこに並んだ塗り絵を見て、保護者は何を思うか。
先生はちゃんと指導しているのか、と判断する材料の一つになる。
莉緒には、それがわかっていた。
わかっていて、「ちゃんと線の中に塗りなさい」と言った。
「ちゃんと線の中に塗りなさい」
その言葉が、一日中、頭の中で響いていた。
二十三年前、莉緒自身が言われた言葉だった。
莉緒が一年生のとき、担任は田中先生という、白髪まじりの女の人だった。
厳しい先生ではなかった。
むしろ優しかった。
ただ、正解を持っている人だった。
図工の授業で、莉緒はお母さんの絵を描いた。
赤いスカートをはいたお母さん。
でも莉緒のお母さんはいつもエプロン姿だったし、
スカートなんてめったにはかなかった。
それでも莉緒は赤いスカートにしたかった。
お母さんに赤いスカートをはかせてあげたかったのだ、
理由もなく、ただそう思った。
そして顔を、緑にした。
お母さんの顔は当然、肌色だ。でも莉緒は緑にした。
お母さんが、葉っぱみたいな人だと思っていたから。
日当たりのいい場所にいつもいて、静かで、ちょっと透明な感じがする人。
田中先生は、莉緒の絵を見て、少し眉を動かした。
「莉緒ちゃん、お母さんの顔は緑じゃないよ」
「でもわたし、こうしたかったんです」
「お顔は肌色でしょう。描き直しなさい」
田中先生は机の引き出しから白い小瓶を取り出した。修正液だった。
「ここだけ、先生が直してあげる」
白が、緑を塗りつぶした。乾いてから、その上に肌色のクレヨンを重ねた。でも下の色は完全には消えなかった。白と緑と肌色が混ざって、変な色になった。お母さんの顔が、病気みたいになった。
莉緒は泣いた。
泣いた理由を、田中先生は誤解した。
「上手く描けなかったから悔しいのね」と言って、頭を撫でた。
違う。
消えなかったから、泣いたのだ。
描きたかったものが、消えなかったから。
四月のたびに配られる同じテンプレートが、七年分積もっていた。
いつの間にか、莉緒は田中先生になっていた。
翌日の昼休み、莉緒は職員室で、ベテランの岸田先生と向かい合ってお茶を飲んでいた。岸田先生は五十代で、この学校に二十年以上いる。
莉緒が赴任した年から、何かとよくしてくれた先生だった。
「岸田先生、子どもが図工ではみ出して塗ってたとき、どうしますか」
岸田先生は湯飲みを持ったまま、少し考えるふうをした。
「どうするって、線の中に塗るよう言うでしょ。評価基準に丁寧さが入ってるから」
「でも、その子はすごく面白い絵を描いてたんです。はみ出した絵が」
「面白くても、課題は課題よ」岸田先生は穏やかに言った。
「図工だって、基礎は大事。まず線の中に塗れるようになってから、応用でしょ」
莉緒は「そうですよね」と言いかけて、止まった。
「でも基礎って、何のためにあるんでしょう」
岸田先生が少し顔を上げた。
「手を育てるため、ですよね。細かい動きができるようになるための練習。
それはわかります」
「そうよ」
「ただ、線の中に収まることを覚えることと、
線の中に収まることしかできなくなることは、違うと思って」
岸田先生が湯飲みを置いた。何かを考えるような間があった。
「……藤堂先生、あのね」岸田先生はゆっくり言った。
「わたしは長くやってきて、思うことがあるの。
線の中を丁寧に塗れるようになって、すごく自信がついた子を何人も見てきた。
家が荒れてて、学校だけが安定してる子もいる。
そういう子にとっては、課題の枠があることが、安心になることもあるのよ」
莉緒は黙った。
「だからといって、はみ出した子を押し込めていいとは思わないけど」
岸田先生は続けた。
「どっちが正しいじゃなくて、子どもを見てないとわからないことがある。
それだけよ」
莉緒は「ありがとうございます」と言った。
腑に落ちた部分と、落ちなかった部分が、胸の中で並んでいた。
翌日の図工の時間、莉緒は塗り絵のプリントをもう一枚用意した。
「今日は、好きなように塗っていいし、書き足してもいいわよ」
子どもたちがざわめいた。はみ出してもいいの?という声が上がった。
莉緒は少し間を置いた。
評価シートのことが、頭の隅でちらついた。学校公開のことも。
「いいわ」
ほとんどの子が、昨日と同じように塗り始めた。
青い空、緑の野原。
自由にしていいと言われても、体に染み込んだ色は簡単には変わらない。
湊だけが違った。
最初から、鉛筆で線を描き足し始めた。
野原に川を足し、家に窓をたくさん描き、空に雲ではなく魚を浮かべた。
「石田くん、何描いてるの」隣の女の子が聞いた。
「魚が空を泳いでる世界だよ」湊は答えた。
「変じゃない?」
「変でもいい。だってこっちがいいもん」
莉緒はその会話を、少し離れたところで聞いていた。
動こうとした。
でも足が止まった。何を言えばいい。
面白いと言えば、正式な課題との整合性はどうなる。
隣の子は傷つかないか。湊を特別扱いしていると見られないか。
考えている間に、湊は黙って魚を描き続けた。
莉緒は結局、何も言わなかった。
ゴールデンウィーク明け、学校に来なくなった子がいた。
石田湊だった。
思えば、前兆はあった。
図工のあと、湊がプリントを丸めてランドセルに押し込むのを見た。
授業中に窓の外をじっと見ていることが増えた。
帰りの会で目が合っても、すぐに逸らすようになった。
莉緒は気になっていた。気になっていたのに、声をかけなかった。
連絡帳には「体調不良」と書いてあった。でも三日経っても四日経っても来ない。
莉緒は家に電話した。
「少し、学校が怖くなってしまったみたいで」
電話口の声は、湊の母親だった。穏やかだが、疲れているような声だった。
「怖い、というのは」
「……友達に、変だって言われたのが、気になってるみたいです。
絵のことで。それだけじゃないかもしれないですけど」
莉緒の胸が重くなった。それだけじゃないかもしれない、という言葉が刺さった。
「魚が空を泳いでる絵ですか」
「ご存知なんですね」母親の声が少し和らいだ。
「あの子、すごく気に入ってたんです、あの絵。
でも変だって言われて、ショックだったみたいで。
前の幼稚園でも同じようなことがあったので、今回は少し長引くかもしれなくて」
「来週、少し早めに登校できますか。授業の前に、湊くんと話したいです」
短い沈黙があった。
「……はい。行ってみます」
翌週の月曜日、湊は母親と一緒に、八時前に学校へやって来た。
莉緒は教室で待っていた。
黒板には、昨日の夜、莉緒が描いた絵が貼ってあった。
魚が空を泳いでいる絵だった。莉緒が描いたものだから、上手くはなかった。
でも、湊が描いたあの絵を思い出しながら、空に魚を泳がせ、野原に川を引き、
家の窓にたくさんの灯りをつけた。
湊は黒板の絵を見て、入り口で立ち止まった。
息が止まったみたいに、動かなかった。
「先生が描いたんですか」
「うん。下手でしょ」
「……どうして」
莉緒は湊の前にしゃがんだ。目の高さを合わせる。
「湊くんが描いた絵、先生すごく面白いと思ってた」
湊は何も言わなかった。
「なのに、あのとき先生は何も言えなかった。
ちゃんと線の中に塗りなさいって言って、行ってしまった。
それが、ずっと引っかかってたの」
「……」
湊の目が、少し細くなった。
「先生も変だって思ってたんでしょ」
静かな声だった。怒っているというより、確認するような声だった。
莉緒は答えを急がなかった。
「変だとは思わなかった。でも、言えなかった。
それは事実で、湊くんに言い訳することじゃない」
湊が莉緒の顔を見た。
「言えなかったのは、なんで」
「……怖かったから」
「何が」
莉緒は少し考えた。評価のこと、保護者の目。
自分の立場を守ろうとする卑怯な計算。
それをどう伝えればいいかわからず、ただ、正直に言うと決めた。
「……へんじゃない。でも、先生みんなにどう思われるか気にしすぎた。ごめんね」
湊は口を閉じた。
「先生、変なの嫌いだった?」
「……そうじゃないのよ」
莉緒は湊の目が揺れるのを見た。
「先生も昔、変って言われた。湊くんと同じ一年生のとき、
お母さんの顔を緑で塗ったら、先生に直されたの」
湊が目を丸くした。
「お母さんの顔、みどり色に塗っちゃったの?」
莉緒は、ふふっと小さく吹き出した。
二十三年前の自分を思い出して、今度は自然に笑えた。
「そうなの。変でしょ。でもね、そのときはお母さんが葉っぱみたいに見えたんだ」
「はっぱ?」
「そう、葉っぱ。静かで、きらきらしてて、お日さまのところにいる感じ」
湊は莉緒の顔をじっと見た。それから、何かを探すように視線を泳がせて、
ぽつりと言った。
「……ぼくんちのお母さんは、雨だよ」
「雨?」
「なんか、しずかに降ってくるの。うるさくないけど、ちゃんといる感じ」
莉緒は笑った。
本当に面白い、と思った。今度はちゃんと声に出した。
「面白いね、それ」
湊が初めて、笑った。小さく、少しだけ。
「でしょ」
その日の放課後、莉緒は美術準備室に寄った。
古い棚に、歴代の子どもたちの作品が保管されている。
段ボール箱の側面に学年と年度が書いてあった。
莉緒は自分が赴任した最初の年の箱を開けた。
七年前の一年生の塗り絵。
最初に見たとき、全部同じだと思った。
青い空、緑の野原、茶色い家。でも今日は、一枚ずつ丁寧に見た。
一枚、空がオレンジ色のものがあった。
一枚、家の煙突からハートが出ているものがあった。
一枚、鳥がやたらと大きく描かれていて、羽で空の半分を覆っているものがあった。
気づかなかっただけだった。
全部同じだと思い込んで、流して見ていたから。
この子たちは、七年前にここにいた。
莉緒が赴任した最初の年に、ここで塗り絵を描いた。
そのとき莉緒は何を見ていたのか。
子どもを見ていたつもりで、見ていなかったのは、自分の仕事の形だった。
手が少し冷たくなった。
莉緒は箱を閉じた。
岸田先生の言葉を思い出した。
線の中を丁寧に塗れるようになって、自信がついた子がいる。
枠があることで安心できる子がいる。
それも本当のことだと思った。
ただ、自分がどちらを見てきたか、という問いは別だった。
壁にもたれて、天井を仰いだ。
翌週、莉緒は図工の時間に、白い画用紙を一枚ずつ配った。
「今日は、塗り絵じゃありません。この白い画用紙に、
好きなものを描いていいです。何をいつ描いてもいいし、
なんなら何も描かなくてもいい。自分で決めてごらん」
教室はすぐに、ざわざわと落ち着かなくなった。
「えー、何描けばいいの!」「いつものとおり?」「迷路描いていい?」
あちこちから質問が飛ぶ。莉緒はそれには答えず、ただ「自分で決めていいんだよ」と繰り返して、教卓から離れた。
子どもたちは戸惑っていた。
隣の席の子の様子を伺う子。画用紙を指でなぞるだけの子。
「わかんないよー」と叫んで、机に突っ伏す子もいる。
莉緒はその騒がしさを止めなかった。
無理に座らせることも、ヒントを与えることもしなかった。
最初に動いたのは、やはり湊だった。
迷いのない手つきで鉛筆を握ると、紙の端の方から小さな線を走らせる。
それを見た周りの子が「あ、湊くんがなんか描き始めた」と覗き込む。
「あ、俺も描こう」「俺はウルトラマンにする」
一人が動き出すと、波が広がるように鉛筆の音が重なっていった。
最後まで迷っていた男の子は、チャイムが鳴る直前、ようやく紙の真ん中にぽつんと丸を描いた。ただの丸。それだけ。
でも、描き終えたとき、彼はふうっと深く息を吐いた。
授業の終わりに、莉緒は全員の絵を黒板に貼り出した。
どれも、違った。
同じものが一つもなかった。
子どもたちが黒板を見回して、笑ったり、驚いたり、「何これ」と言い合ったりした。
紙の真ん中に丸だけ描いた男の子の絵を、誰かが「地球みたい」と言った。
男の子は嬉しそうだった。
本当に地球を描いたのかどうか、莉緒にはわからなかった。
でもそれでよかった。
湊の絵は、空に魚が泳ぎ、野原には川が流れ、家には無数の窓が描いてあった。それぞれの窓に、小さな顔が描いてあった。
「窓の人たちは誰?」莉緒は聞いた。
「知らない人」湊は言った。「でもみんな、外見てる」
莉緒は黒板に並んだ絵を、立ったまま眺めた。
塗り絵のときは、遠目から見れば全部同じだった。
でも今日の絵は、一枚一枚がまったく違う形をしていた。
どれが上手いとか、正しいとか、そういう話ではなかった。
それが当たり前のことのはずなのに、莉緒はなぜか少し泣きそうだった。
夜、莉緒は実家に電話した。
母が出た。
「お母さん、昔さ、わたしがお母さんの顔を緑で塗ったこと覚えてる?」
「え?何の話?」
「小学一年生のとき、図工で家族の絵を描いて、お母さんの顔を緑にしたの」
「覚えてないわよ、そんな昔のこと」母は少し笑った。「緑?」
「先生に直されて、泣いたんだよ」
間があった。笑いが引っ込む音がした。
「……それは、知らなかった」
「葉っぱみたいな人だと思ってたから、緑にしたの」
「葉っぱ?」
「静かで、透明な感じがして、日当たりのいいところにいる人」
電話の向こうで、母親が黙った。
「そういう目で見てたんだね」
「うん」
「なんか」母は言葉を探した。
「嬉しいんだけど、あのとき泣いてたのを知らなかったのは……ごめんね」
莉緒は受話器を持ったまま、目を閉じた。
謝らなくていい、と思った。でも、受け取れてよかった、とも思った。
二十三年前に言ってほしかった言葉が、今夜届いた。
遅すぎるとは思わなかった。
届いた、と思った。
翌朝、莉緒は少し早く学校へ行った。
黒板に一言書いた。
「きょうのずこう:つづきをかこう」
子どもたちが登校してくる。湊が来た。
黒板の文字を見て、すぐに顔がほころんだ。
莉緒は出席を確認しながら、昨日の白い画用紙を返した。
「昨日の続きを描いてもいいし、新しく描いてもいいよ。どっちでも」
湊は迷わず昨日の紙を広げた。窓の顔たちに、少しずつ色を足していく。
莉緒は教室をゆっくりと歩いた。
丸だけ描いた男の子は、丸の周りに小さな星を足していた。
地球に、宇宙が生まれていた。
莉緒はその絵の前で立ち止まった。
「きれいだね」とだけ言って、次の机へ歩いた。
学校公開は、五月の末にあった。
廊下に、子どもたちの白い画用紙を貼り出した。
魚の空、丸だけの地球、名前のない色の塊、線を何本も引いただけの絵。
貼り出す順番を、莉緒は三回変えた。
インパクトのある絵を真ん中にするか、地味な絵を両端に逃がすか。
考えながら、考えていること自体に気づいた。見栄えを整えようとしている。
また同じことをしていた。結局、画用紙を配った順に貼り直した。
保護者たちが廊下を歩きながら眺めていく。
一人のお母さんが莉緒に近づいてきた。
湊の絵と、その周りの奔放な絵を見比べて、戸惑ったような顔をしている。
「先生、これ……みんなバラバラですけど、何を描くか教えなかったんですか?」
「はい。何を描くかから、自分で決めてもらいました」
「でも、これだと……」お母さんは、言葉を選びながら湊の絵を指差した。
「はみ出したり、変な色だったりしても、そのままでいいんでしょうか。ちゃんと教えなくて大丈夫なんですか?」
莉緒は、廊下に並んだ不揃いな画用紙をゆっくりと見渡した。
「今は発想や表現を大事にしています。
上手いとか下手とか、決まり通りに描くことよりも」
お母さんは黙った。納得したのかはわからない。
ただ、莉緒が迷わずに答えたことに驚いたような顔をして、また廊下を歩いていった。
少し後、廊下の端を教頭が通った。
立ち止まり、掲示の列を見た。莉緒と目が合った。
教頭は何も言わなかった。ただ、頷くでもなく頷かないでもないような顔をして、通り過ぎた。
その背中を見ながら、莉緒は自分が少し縮んでいることに気づいた。
別のお父さんが「これ面白いな」と言いながら、湊の魚の絵の前で足を止めた。
隣にいた子どもが「これ、ぼくのクラスの子が描いた」と言った。
莉緒は何も言わずに、それを聞いていた。
でも言い切れたことが、少しだけ、自分のものになっていた。
六月になると、莉緒は毎年恒例の「家族の絵を描こう」という課題を出した。
ただし今年は、塗り絵のプリントではなく、白い画用紙を渡した。
子どもたちは思い思いに家族を描いた。
お父さんが青かった。
お姉ちゃんが黄色だった。
犬が赤かった。
莉緒は一枚一枚を眺めながら、何も直さなかった。
ただ、一つ気になることがあった。
線の中をとても丁寧に塗っている子がいた。
水色の空、黄緑の野原、きちんと色分けされた家族。
どこにもはみ出していない。几帳面で、美しかった。
莉緒はその子の机の前に立った。
「丁寧だね」
その子が顔を上げた。少し不安そうな顔をしていた。
「これで……だいじょうぶ?」
莉緒は「いいよ」と言った。
「丁寧に塗れるのは、すごいことだよ」
その子が、ほっとした顔をした。
莉緒はそれを見て、岸田先生のことを思った。
二十年かけて見てきたものが、あの一言には入っていた。
莉緒はまだ、その答えを持っていなかった。
湊は、お母さんを灰色と白で描いた。
しとしと降る、雨のような色で。
莉緒はその絵の前で少し立ち止まって、「いいね」とだけ言った。
湊は「でしょ」と言って、また筆を動かした。
教室の窓の外では、六月の雨が降っていた。
しずかに、しずかに、ちゃんとそこにあるように。