バルコニーのオリーブを折る-4)あたらしい鉢

バルコニーのオリーブを折る-4)あたらしい鉢

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塾のクラス編成でまた1ランク落ちした。いい加減無駄なお金を使わせないで欲しい、私のパート代が全部あの子につぎ込まれている。報われるには、成績という結果でしかない。



一日十時間は勉強しないと間に合わない。夏休みが正念場なのだ。中学二年生から受験勉強に取り組むのは、意識が高いからではない。

“みんなそうしているからだ”



取り残されれば、その分学力に差が出る。

学力を伸ばす環境なら、お金で買える。



夫はそこまで受験勉強に入れ込むのは反対だと言っていたが、塾代を私が出すと提案した途端、「任せるよ」と放り投げた。あの人は子育ては、親の一次アクションで変わるのだと未だにわかっていない。



剛志の部屋の前で、敢えて咳払いをする。ノックするよという合図だ。ノック自体が入室するよの合図なのだが。合図に合図を重ねている。



「勉強してるの?」

引き戸を開ける前に、声を発した。相変わらず、甲高く相手に不快感を与える声質だと自認する。パートリーダーの師岡さんは、私の声が嫌いでシフトを減らすという意地悪をする。



「……うるさい」

小さい苛立ちが聞こえた。聞こえているが、聞き取れないフリをする。私に「うるさい」だなんて、許せない。時間をお金に変えて、そのお金をあなたの塾代に変えているのは私だ。師岡さんに頭を下げて、媚びて、|諂《へつら》って、自虐に堕ち、それでもシフトを確保できずにいる。もっと私が認められるには、そう思って簿記二級の資格を面談の際にアピールした。来月からは経理部で内勤パートになる。時給も上がる。師岡さんからも解放される。彼女の時給だって把握できるようになる。



資格は、勉強によって手に入れるものだ。勉強は結果を出してこそだ。出さなければ、資格は手に入らない。過程も大切だが、結果が最も大切。



剛志にそのことを理解して欲しい。もう、いくらあなたに突っ込んだのか、わからなくなっているほどだから。



「ねぇ、勉強してるの?」同じことを二度言う。これで、はっきりと苛つくだろう。「うるさい」と言えば、私にだって考えがある。ハッキリと言質を取りたい。



引き戸が勢いよく開く、窓を開けていたせいか、部屋にこもった剛志の臭気が廊下まで突き抜ける。その男らしさの塊に、私の鼻腔が刺激され、困惑する。



仁王立ちする私に、剛志は膝蹴りを、よろめく私に追い打ちで蹴りを。どちらもみぞおちに入り、私は息を吸えなくなった。



倒れ込む私に剛志は馬乗りになり、後頭部を何かで殴りつけていた。拳じゃない、何かだ。顔の横に熱い液体が流れ、それが血だと気づいて意識を失った。



目が覚めると、剛志は机に向かって勉強をしているようだった。私は後頭部が腫れあがり、手を当てるとうっすらと血が付いた。家着の白のブラウスは、肩のあたりが赤く染まり、その異様さにどの言葉から発していいのか考え込んだ。



「ドア、閉めてくれない。勉強してんだよ」

剛志にそう言われると、私は片膝をついたまま扉を閉めた。扉にも私の血痕が飛び散っている。



その足で、私は近くの交番に駆け込んだ。夫の携帯は繋がらず、メッセージを送っても既読にはならない。会社に直接電話をしてみたが、商談中ということで取り次いでもらえなかった。この状況を緊急事態だと伝えるべきか悩んだが、妻が慌てた声で会社に電話をしているというのに、取り次がないのだから、どういう状況か伝えても意味がないと判断した。



交番では、息子に暴力を振るわれたと言えば逮捕されるかもしれない。先月誕生日だった。満十四歳は逮捕される。

「だれに、暴行を受けたの?」

警察官みんながタメ口なのか、この警察官だけがタメ口をきいてくるのか。

「息子です」と答えた。

「息子さんいくつ?」

「じゅうう、三歳です」

「十三歳なら、逮捕できないから児相だな」

「逮捕されないんですよね」

「厳密には、少年院に送られることもあるよ。程度問題だから」



スマホの着信音が鳴る、夫からだ。警察官に断りを入れて、電話に出た。

「どうしたの?」

「剛志が、その」

「今どこにいるの、家?」

「近くの交番に……」

「ちょっと、一旦さぁ俺帰るから、家で話聞くから。交番は後にしてよ」



夫の一方的な事なかれ主義に助けられた。私は警察官に、一度夫と話をしますと伝えた。警察官も「そうしてください。困ったら連絡を」と夫にも似た事なかれ主義で、いらない仕事を一つ減らせたようだった。



帰宅すると、夫は剛志と取っ組み合いを始めていた。バルコニーの植木たちも鉢が割られ、層になって散乱していた。



剛志が生まれた年に買ったオリーブの木は、全部葉がむしり取られ、枝は乱暴に千切り捨てられていた。



「あれは、私たち家族だ」

取っ組み合いをする夫は、あくまでも剛志の蹴りやパンチを受け流すのみで、自分からは手を出していない。防戦一方の父親に剛志は容赦がない。



私は剛志の部屋に行き、机の上の教材を抱えて、そのまま二人に投げつけた。



「もう、好きに生きればいい!勝手にしなさい」

私は私に言って欲しかった言葉たちを、家族だった二人に投げつけた。



翌月のお給料で、私は欲しかったブラウスとワンピース、バッグを買い、行きたかった二駅先のビストロでワインを楽しんだ。鴨のコンフィとカスレを頬張り、安物の赤白ワインで交互に流し込んだ。



退塾届を剛志の意思で、自ら提出させた。夫は「剛志が決めたなら、それでいいんじゃないか」といつもと同じ様子で、ソファーに寝転んだまま返事したのが印象的だった。



バルコニーの植物たちは、相変わらずそのままだった。割った鉢を剛志に買うように言った。鉢底に網を敷き、石を詰め、土を入れて、植え直させた。

歪なバルコニーの植物コーナー、オリーブの木だけはどうにもならなかった。



新しい大ぶりの鉢に、葉もなく無残に枝先が折られたオリーブの木。剛志の成長とともに、と思って育てていた。私はバルコニーに裸足で出て、オリーブの木をじっと眺めた。



部屋から窓越しに視線を感じた。剛志だ。



オリーブの木を手に取って、力一杯、折った。

尖った枝先が左手に食い込み、手のひらを突き破る。血がどくどくと流れるが、私は折るのをやめなかった。



鉢に半分の高さほどになった、枝だけのオリーブの木は私の血にまみれた。静かに朽ちていく姿が、私には愉快だった。
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