私は、椅子に座らない。

私は、椅子に座らない。

記事
小説
久々の創作です。

ー えんたくの、しずかな物語 ー

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。




うちの店は、駅前の通りを一本入ったところにある。

午前中は証明写真が多い。履歴書、免許の更新、旅券。午後になると、七五三の相談や、学生服の記念に来る人が入る。

証明写真は、座ってもらってから、まず椅子の高さを合わせる。背もたれには寄りかからせない。顎を五ミリ引いてもらう。肩の力を抜いてくださいと言うと、たいていの人はよけいに力を入れるから、言わない。代わりに、天井の隅を一度見てもらってから、こちらへ戻す。それだけで顔が変わる。

背景の紙は、月に一度、端を切る。人の靴が触るところから汚れていく。

四十一年、そうやってきた。

私が写った写真は、この店にほとんどない。商店会の集まりでも、店の記録でも、私が撮る側にまわった。撮ってあげますと言えば、だれも断らない。便利な言い方だと思う。

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その日は、午後から雨だった。

三時をまわって、傘立てに一本も傘がなくなったころ、戸が開いた。

「こんにちは」

顔を見て、すぐには声が出なかった。

早瀬だった。二十三年ぶりだった。

「お久しぶりです」

四十九か五十になっているはずだ。髪は短くなって、痩せた。目のあたりは変わっていない。

「よく、店がわかったわね」
「変わってませんから」

そう言われて、店の中を見た。たしかに何も変わっていない。撮影台のリノリウムは継ぎ目が浮いているし、待合の丸椅子は座面の合皮が割れている。

早瀬は身軽だった。肩から何も下げていない。手には薄い封筒が一つ。雨の日に、鞄も持たずに歩いてきたらしい。

「今日は、身軽ね」
「ええ」

お茶を出した。

湯呑みを受け取る手が、目に入った。指の腹が硬くなっている。爪の際に、黒いものが入っていた。もう薬品を使う仕事でもないだろうに、と思った。

「今、どこで撮ってるの」
「いろいろです」

いろいろ、というのは、この子の昔からの答え方だった。

「見せてよ、最近の」
「今日は、持ってきてません」

そのとき、戸がまた開いて、小学生の女の子と、その母親が入ってきた。学校に出す写真だという。

私が背景の前に椅子を出しているあいだ、早瀬は待合の丸椅子に座っていた。

女の子が椅子に座って、顎が上がった。

早瀬の指が、自分の顎の下で、わずかに動いた。半分だけ下ろすような動きだった。声は出さない。腰も浮かせない。すぐに手を膝へ戻した。

私は、その通りに直して、撮った。二枚撮って、一枚を選んだ。

母娘が帰ってから、早瀬は湯呑みを持ったまま、撮影台のほうを見ていた。

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この子は、二十三のときにうちへ来た。三年いた。

私はよく叱った。

「見せたいものが多すぎる」
「これは写真じゃなくて、あなたの言い訳」
「この人の顔を撮ったんじゃない。あなたが撮りたいものを、この人の顔に置いただけ」

言い方を選ばなかった。プリントは裏返して返した。毎日そうした。

早瀬は言い返さなかった。次の日には、また撮ってきた。それを見て、私はまた言った。

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「これ、返しに来ました」

早瀬が、封筒をカウンターに置いた。

置いた場所は、いつも私が仕上げた写真を客に渡す位置だった。私の手には渡さなかった。

封を開けると、六つ切りが一枚入っていた。角が丸くなっている。何度も出し入れした紙の丸まり方だった。

私だった。

撮影台の椅子に、一人で座っている。背もたれに寄りかかって、脚を投げ出して、片手を膝に置いている。

口を開けて、目を細くして、カメラの向こうへ笑っていた。

この一枚を見るのは、二度目だった。

三年目の秋の朝、早瀬が暗室から出てきて、これを差し出した。前の晩に閉店後の店で撮って、そのまま自分で焼いたのだと言った。私は受け取って、しばらく見て、それから、辞めるようにと言った。

理由は、その前の月に本人へ伝えたつもりでいた。撮り方が甘い。人を怖がらせないことばかり考えている。それでは食べていけない。

早瀬は「わかりました」と言って、それだけだった。荷物は段ボール一つで、暗室の道具は置いていった。この一枚だけを持っていった。

その年の冬に町を出たと、あとで人から聞いた。

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「あなた」

声が出た。

「これを撮ったから、私が辞めさせたと思ってる?」
「はい」

はい、と言った。

「そう思って、二十三年いたの」
「途中からです」

早瀬は、湯呑みを両手で持っていた。

「はじめは、腕が足りないからだと思っていました。何年かして、この写真を見ているうちに、そうじゃないのかもしれないと思うようになりました」

雨の音が、急に大きくなった気がした。

私は、写真を見た。自分の顔を、こんなに長く見たことがない。

あの晩のことは、ほとんど覚えていない。閉店後に椅子で休むのは毎日のことだったし、片づけが済むと、この子は、その日、自分が撮らせてもらった客の話をした。目を閉じられたとか、笑わせられなかったとか、そんな報告だった。

「あの晩、なにか言わなかった」
「今日の人で、百人になりました、と言いました」

早瀬が言った。

「私が一人で撮らせてもらった人が、です」

言い終わってから、少しだけ笑った。二十三年前も、たぶん同じ笑い方をしたのだと思う。

「無断で撮りました。すみません」

言うなら今しかないと思った。言ったところで何にもならないことも、わかっていた。

「あれは、嫌いだったんじゃない」

早瀬が顔を上げた。

「写っていたから、怖かった」

早瀬は何も言わなかった。うなずきもしなかった。

「これ、店に」

そこまで言って、続きが出てこなかった。

「はい?」
「なんでもない」

湯呑みが、カウンターの上で小さく鳴った。

「あのあと、どうしたの」
「二年、続けました。よその店に入って。それから、やめました」
「なぜ」

早瀬は、少し考えていた。

「なんででしょうね」

湯呑みを回して、持ち直した。

「途中から、シャッターを切る前に手が止まるようになって。それだけじゃないんですけど。うまく言えません」

私は、それ以上聞かなかった。

「今は」
「合鍵と、刃物を研いでます。駅の反対側の店で、三年」

三年。

「三年、この町にいたの」
「はい」

「持っていても、私の写真ではないので」

早瀬は、カウンターの写真を見た。

「そろそろ、返そうと思って」

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「早瀬さん」

はじめて、さん、をつけて呼んだ気がする。

「一枚、撮ってくれない」

早瀬が、目を上げた。

「私を」

自分で言って、自分で驚いた。四十一年、一度も言ったことがない。

早瀬は、しばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

「カメラ、持ってないんです」

「ここのを、使えば」

言ってしまってから、言うべきではなかったと思った。

早瀬は、撮影台のほうを見た。三脚に載ったままのカメラを、しばらく見ていた。

手は、出さなかった。

「すみません」

そう言って、頭を下げた。

私は、うなずいた。

早瀬は湯呑みを流しへ持っていって、自分で洗って、伏せた。三年いた店の、置き場所を覚えていた。

出ていく前に、撮影台の椅子に手をかけた。

女の子を撮ったときに、少し斜めになっていた。それを、正面に戻した。

「お邪魔しました」

戸が閉まった。

雨は、まだ降っていた。

写真は、客に渡す位置に置かれたままだった。私はそれを持ち上げて、裏返さずに、レジの横へ立てかけた。

店の電気を落とす時間には、まだ早かった。

私は撮影台へ行って、正面に戻された椅子に、腰を下ろした。




ここから、少しだけ。

「相手は自分を本当にわかってくれている」と信じていたことが、

実は「わかった上で、わからないふりをしてくれていた」のだとしたら。

その瞬間、何が変わるのか。

恥ずかしさと、感謝。

その両方が、同時に立ち上がります。

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